第47話「リリス」
血流の滲み出た薄桃色の肉塊が、見る間に焼けた肌色へと変化していく。
産毛が生えそろい、爪までもが生成されていた。
瞬くほどの間に、右腕と寸分違わない状態に再生する。
「ふうん?」
少し驚いたように自分の左手を握ってみる碇シンジ。感覚も違和感がない。
「再生、するんだ」
アンチATフィールドを消した綾波レイを振り返る。
「ATフィールドが人のかたちを保つわ」
「ぼくが望んだのかな?」
「……そうね」
右手と左手を胸の前に差し上げ、比べる。
同じ形だが……右掌には痣のように浮き上がるアダムのかたちがあった。
「どういうことよ?」
呆然としていた惣流アスカが、ようやく言葉を紡ぎ出す。
「シンジくんはアダムと肉体的に同化したのさ」
答えは渚カヲルが代わった。
「アダムの形質がシンジくんの身体を補完するからね」
「それって……使徒になっちゃったってことなの?」
「それは違うよ。肉体的な同化はかたちの次元でしかない。ぼくと精神が同化していた頃のほうが使徒には近いだろうね」
渚カヲルの説明はよく分からなかった。
碇シンジに問い直す。
「あんた、腕を再生するために、そのアダムと同化したの?」
「ううん。それは考えてなかった」
「じゃあ、なんのために?」
「ロンギヌスの槍を制御しなくちゃならないからね」
「槍?」
「最後の使徒、倒さなきゃならないし」
「あ」
あまりの光景に忘れかけていた。
窓外ではなおも激しい戦闘が続いている。
「行こう、カヲルくん」
碇シンジはヘブンズドアへの通路に足を向けた。
「最終安全装置、解除!」
青葉シゲルの叫びに日向マコトが続ける。
「ヘブンズドアが開いていきます」
「いったいどうなってんのか」
いらだたしげに葛城ミサト。
「なんとか映像、モニタできないの?」
「はあ」
セントラルドグマへのアクセス回路はプロテクトされている。発令所オペレータにもそれを解除する権限はなかった。
いくつかのセキュリティシステムからの警報だけが、唯一の情報源になってしまっている。
「赤木博士」
碇ゲンドウの声が降る。
「しかし……」
「かまわん」
短い認可で躊躇いを断たれた赤木リツコの指が、コンソールを舞い、複数のパスワードを入力していく。
「リツコ?」
「プロテクトを解除するわ。青葉くん、コキュートス層への情報経路、開くわよ。解析、回して」
その言葉と同時に、複数の警告音がけたたましく重なる。
閉ざされていた情報が発令所に一気に流れ込んだ。
「ファーストチルドレン、セカンドチルドレンの所在確認! セントラルドグマ内……サード、フィフスと一緒です」
「え?」
「複数のATフィールドを確認」
「セントラルドグマの映像、メインスクリーンに送ります」
デジタルな数値データだけで埋め尽くされていたメインスクリーンが、アナログ映像を捉えた。
組み合う二体の巨人。
初号機と弐号機の姿が、林立する塩柱の間に浮かび上がる。
中央作戦室のスタッフは、誰もがただ息を飲んだ。エヴァにではない。地下の砂漠様の光景に目を奪われていた。
「シンジくんたちはどこにいるの?」
「ヘブンズドアの中のようです」
位置データを確かめた青葉シゲルが、葛城ミサトの問いに答える。
「そこでは映像は無理ね」
赤木リツコの補足。
「音声だけでも、無理なの?」
舌打ちするように葛城ミサトは質問を重ねる。
「プラグスーツでも着てくれていれば拾えますが……」
あいにくチルドレンたちは全員が学校の制服姿だった。
四人のチルドレンは、それぞれの思いを胸に腐肉の巨人を見上げた。
「これが……リリスね」
惣流アスカの言葉は沈黙をもって肯定される。
「この場所は……好きじゃない」
「思い出すのかい?」
ぽつりと零した碇シンジに、微妙な笑みを投げかける。
「今の時は別の流れになってるけど……ぼくにとってはすでに起こったことだから。思い出は消えないもの」
「やり直すだけでは救いにはならなかったんだね?」
「うん」
「人は思い出を忘れることで生きていけるんだよ?」
「……忘れてはならないこともある、って。父さんはそう言ってた」
「忘れたほうがいいことほど、忘れられないものなのかも知れないね」
諦念の響きが渚カヲルの言葉に込められた。
全ての人は、思い出に縋って足掻いてきたのかも知れない。
救いの道は、その思い出を持ち続けることなのか、あるいは手放してしまうことなのか、どちらでもあり、どちらでもなかった。
「弐号機はどう?」
「そろそろ限界、かな」
「アスカの弐号機だし。壊すわけにはいかないよね」
「あ、あったりまえでしょ!」
はっと我に返った惣流アスカは、リリスから視線を少年に移す。
弐号機パイロットという立場にすでに拘りはないが、それと弐号機の機体の破壊とは別問題だった。
「……でも、どうすんのよ?」
安心してよ、と笑って右の手をリリスに向ける。
巨人の胸を貫いていた長大な槍が、微妙に振動を始めた。
「槍が原子炉の制御棒のような役目も果たすって、前に教えたよね?」
「うん、聞いたわよ」
「アダムとかリリスを抑えることも出来る。使徒はアダムの子どもみたいなもんだからさ、対抗できないんだ」
惣流アスカに記憶が巡る。
「そういうこと……」
『以前』、あまりにもあっけなく第15使徒を貫いたその力、そして弐号機に乗ってエヴァシリーズを殲滅寸前で、コピーに過ぎない槍にもなすすべなく刺し抜かれてしまったその力を思い出した。
「槍はアダムの力で制御できる。槍自身に逆らわれない限りね」
「逆らう? 槍って生きてるの?」
「命ってわけじゃないけど。遺伝子の固まりみたいなもんだよ」
槍自体に意思があるのかどうかは碇シンジもわからない。
少年が言ったのは、ロンギヌスの槍の代替として使われようとした『以前』の綾波レイの姿を思い描いただけのことである。
とはいえ。
ロンギヌスの槍はあたかも生命を持つように、震え輝きを放ち始めていた。
ドォン、と背後からの振動。
半壊したヘブンズドアを抜け、弐号機を振り払うようにして突き進む初号機の姿が現れた。
直立してはいない。
四つ足の獣に近い動きで這うように蠢く。
悟性を感じられぬ双眼の輝きが、舐めるように碇シンジの姿を射る。
「カヲルくん」
「ああ」
少年の赤い瞳が最後の命令を弐号機に伝える。
初号機の背後に被さりつき、弐号機の腕がその上体を引き起こした。
むき出しの胸部コアが、リリスの前面にさらされる。
瞬間。
空気を切り裂く音とともに、リリスの胸部を貫いていたロンギヌスの槍が脈動し、後ろざまに軌跡を描いて跳ね飛んだ。
その成長を抑制されていた腐肉の下半身がずるりと音を立てて増殖し、身体を支える十字架直下のLCLの海に到達したとき、すでに初号機の姿はヘブンズドアの向こう、塩の砂漠へともんどりうって吹き飛ばされていた。
それは『以前』、弐号機が迎えた最期の姿にも似て。
深々とコアを槍に貫かれ、地につけないまま仰向けに槍に縫い止められて、その活動を止めた。
同時に、制御を解かれた弐号機が、うつぶせに地に倒れた。
「終わったようだね」
渚カヲルの一言が鎮魂歌だった。
再び、セントラルドグマを静寂が支配した。
「初号機……いえ、目標、沈黙!」
メインモニタはロンギヌスの槍に貫かれた初号機の姿を捉える。
中央作戦室に、ほうっと安堵の空気が流れる。
「なんだかわかんないけど、目標は片づいた訳よね?」
鬼の作戦部長としてはなんとも頼りなげな言葉だが、他に言いようもなかった。
「第一種警戒体制に……」
「まだだ」
戦闘配置を解こうとした葛城ミサトを碇ゲンドウが押しとどめた。
「は?」
「これから始まるのよ……」
赤木リツコが震える声で呟いた。
「これで終わったのよね?」
惣流アスカの声が、静まっていた空間に響く。
「でもさ、槍を突き刺すだけなら弐号機だけでも良かったんじゃないの? アダムの力を借りる必要なんてあるわけ?」
「これからなんだよ」
「これから?」
碇シンジの言葉に首を傾げる。
それに答えるようにして。
「死海文書に語られる使徒の殲滅は終わりリリスは復活した」
渚カヲルが告げた。
「シンジくんの望みのままにね」
綾波レイが寄り添った。
「約束の時が来たのね……」
顔はあげない。
どこかに震えるような躊躇いがあった。そしてまた、とめどない期待の響きもあった。
「やっと、ね」
「これでいいのね?」
「この時のために……やってきたからね」
その様子に惣流アスカは、わき出るような苛立ちと違和感を感じる。
「どうゆう意味よ?」
「ねえ、アスカ?」
「え。なに?」
「閉塞した人類とか、エヴァの中で生きるとかってぼくには分からない」
なにを言い出すのか、と怪訝な顔を少年に向ける。
「だからぼくはもう一度、やり直したかったんだ」
「やり直すって……」
「サードインパクトをね。ぼくの救いの道を」
「な、なにいってんのよ?」
「ぼくはサードインパクトを経験した。それはゼーレが計画してたものでもなかったし、母さんが求めたものでもなかったし、父さんの望んだものでもなかった」
補完計画はゼーレのシナリオに沿って進んだが、依代たる碇シンジの心はそれを受け入れなかった。
全てのヒトの魂が一つになり、溶け合うことを拒否した。
……生まれてきてもなにもいいことはなかった。
……逃げたところにもいいことはなかった。
……ぼくがいなかったから。
「補完計画は失敗したし、ぼくの逃げ場所もやっぱりどこにもなかった」
碇シンジは淡い微笑みを浮かべながら淡々と語る。
「みんなが消えてしまうのは嫌だ。カヲルくんを殺すのも、綾波をリリスにするのも、ミサトさんが死んでしまうのも、リツコさんが殺されてしまうのも……母さんや……父さんがいなくなってしまうのも嫌だった」
「で、でも」
惣流アスカは頭に痺れを覚えながらも、もどかしげに口を開く。
「こうやってやり直して、みんなこうして生きてるじゃない!」
「でもぼくは知っている。みんな死んでしまったことを。ねえ、アスカ、アスカも死んだんだよ?」
「え、ええ!?」
「ぼくの知っているアスカはエヴァシリーズに喰い殺されて死んでしまった。じゃあ、今、ぼくの目の前にいるアスカは誰なの?」
「あたしはあたしよ! 殺されてなんかいない。そのサードインパクトのとばっちりだかなんだかで、時を戻って……」
「そんなはずないさ。だってサードインパクトの時にはすでにもうアスカは死んでたはずだもの。ぼくの記憶じゃあそうなってる」
「じゃ、じゃあ、あたしは誰だって言うのよ!」
「ぼくはね、最初は時を戻ったんだと思ってた。でも、そうじゃなかったのかも知れない。戻ったんじゃなくて、ぼくが自分の都合で再構成した世界だったのかも知れないって」
「再構成ですって?」
「アスカがね、ぼくを知らないアスカじゃなくて、ぼくを知ってるアスカだって分かったとき。それなのに、ぼくのことを憎んでも嫌がってもいないって思ったとき。そう気づいたんだ」
……この世界は、自分にとって都合がいいだけの偽物じゃないのか、と。
碇シンジは続ける。
「ぼくの夢に過ぎないのかも知れないって、ね」
「あんた、あたしを夢にする気? あたしの存在を幻だっていうの?」
「うん」
バシッ、と碇シンジの頬が鳴る。
惣流アスカは激高していた。
「なに勝手なこと言ってんのよ、バカシンジ!」
「間違ってると思うの?」
「間違ってるわよ!」
「そうかも知れない」
少年は肩をすくめた。
「どちらにしても、ぼくの記憶が消える訳じゃないもの。ぼくにとってはみんな死んでしまった人なんだよ」
「そんなの、あんたの問題じゃない!」
「そうだよ」
赤く腫れた頬を押さえる。
「だからぼくはぼくの思い出を消すために、サードインパクトを起こす。このままじゃあ、また戦自が攻めてくるかも知れないし、父さんだって父さんの考えがあるもの。ぼくには勝てなくなってしまう。
ぼくに出来るのは、だからぼくの意志でぼくのために補完計画を遂行することだけだったんだよ」
「そんな勝手な言いぐさ、許さないわよ!」
「ぼくはアスカを幸せにしてあげる」
「え?」
「綾波も、カヲルくんも、ね」
沈黙を守って見守っている二人を見やった。
「シンジくん」
「碇くん……」
「アダムの力はぼくにあるし、ロンギヌスの槍もちゃんとここにある。ぼくの意思でリリスによる補完ができるから」
全ての魂をひとつにするのではない、と言った。
「みんなの魂をぼくの夢から解き放つ」
「解き放つ、って……どういうことなのよ!?」
「ぼくの記憶を、みんなの中から消すんだよ」
「記憶を消すってなに!? あんた、死ぬ気?」
「違うさ。ぼくは神として広がる。ぼくはみんなの中で、みんなを感じながら生きていくんだよ。永遠にね」
碇ユイが、エヴァンゲリオンの中で生きると言ったことのそれは裏返し。
碇シンジは、内への収斂ではなく外への拡散を選んだということ。
「ぼくはみんなが生きていることを感じられるし、みんなはぼくの記憶を忘れることで生きていける。神という伝説だけを残してね」
「神、ですって?」
「はじまるよ」
光が生まれた。
ロンギヌスの槍が、初号機から戻ってきていた。
それは螺旋を描き、中央樹をかたちどる。
「待ちなさいよ! そんな勝手な話……」
惣流アスカの声は轟音のような光の海にかき消される。
ロンギヌスの槍に導かれ、碇シンジの身体がリリスへと浮遊する。
「ばかシンジ!」
輝きはますますその光度を増した。
光の波が暴風のように渦巻き、その中心にリリスの身体がある。
槍はその形状を歪め、碇シンジの身体を取り巻くように回転し、リリスの肉体と合わさり溶ける。
刹那。
再び鋭く長大な棒状の形態を取り戻し、リリスの胸を貫き射た。
巨人の顔にかけられていた七つ目の仮面が溶けるように落ちる。
その下から現れた貌は、碇シンジの相貌を持っていた。
妙なる光がさらに拡散し。
――そして補完が始まった――
産毛が生えそろい、爪までもが生成されていた。
瞬くほどの間に、右腕と寸分違わない状態に再生する。
「ふうん?」
少し驚いたように自分の左手を握ってみる碇シンジ。感覚も違和感がない。
「再生、するんだ」
アンチATフィールドを消した綾波レイを振り返る。
「ATフィールドが人のかたちを保つわ」
「ぼくが望んだのかな?」
「……そうね」
右手と左手を胸の前に差し上げ、比べる。
同じ形だが……右掌には痣のように浮き上がるアダムのかたちがあった。
「どういうことよ?」
呆然としていた惣流アスカが、ようやく言葉を紡ぎ出す。
「シンジくんはアダムと肉体的に同化したのさ」
答えは渚カヲルが代わった。
「アダムの形質がシンジくんの身体を補完するからね」
「それって……使徒になっちゃったってことなの?」
「それは違うよ。肉体的な同化はかたちの次元でしかない。ぼくと精神が同化していた頃のほうが使徒には近いだろうね」
渚カヲルの説明はよく分からなかった。
碇シンジに問い直す。
「あんた、腕を再生するために、そのアダムと同化したの?」
「ううん。それは考えてなかった」
「じゃあ、なんのために?」
「ロンギヌスの槍を制御しなくちゃならないからね」
「槍?」
「最後の使徒、倒さなきゃならないし」
「あ」
あまりの光景に忘れかけていた。
窓外ではなおも激しい戦闘が続いている。
「行こう、カヲルくん」
碇シンジはヘブンズドアへの通路に足を向けた。
「最終安全装置、解除!」
青葉シゲルの叫びに日向マコトが続ける。
「ヘブンズドアが開いていきます」
「いったいどうなってんのか」
いらだたしげに葛城ミサト。
「なんとか映像、モニタできないの?」
「はあ」
セントラルドグマへのアクセス回路はプロテクトされている。発令所オペレータにもそれを解除する権限はなかった。
いくつかのセキュリティシステムからの警報だけが、唯一の情報源になってしまっている。
「赤木博士」
碇ゲンドウの声が降る。
「しかし……」
「かまわん」
短い認可で躊躇いを断たれた赤木リツコの指が、コンソールを舞い、複数のパスワードを入力していく。
「リツコ?」
「プロテクトを解除するわ。青葉くん、コキュートス層への情報経路、開くわよ。解析、回して」
その言葉と同時に、複数の警告音がけたたましく重なる。
閉ざされていた情報が発令所に一気に流れ込んだ。
「ファーストチルドレン、セカンドチルドレンの所在確認! セントラルドグマ内……サード、フィフスと一緒です」
「え?」
「複数のATフィールドを確認」
「セントラルドグマの映像、メインスクリーンに送ります」
デジタルな数値データだけで埋め尽くされていたメインスクリーンが、アナログ映像を捉えた。
組み合う二体の巨人。
初号機と弐号機の姿が、林立する塩柱の間に浮かび上がる。
中央作戦室のスタッフは、誰もがただ息を飲んだ。エヴァにではない。地下の砂漠様の光景に目を奪われていた。
「シンジくんたちはどこにいるの?」
「ヘブンズドアの中のようです」
位置データを確かめた青葉シゲルが、葛城ミサトの問いに答える。
「そこでは映像は無理ね」
赤木リツコの補足。
「音声だけでも、無理なの?」
舌打ちするように葛城ミサトは質問を重ねる。
「プラグスーツでも着てくれていれば拾えますが……」
あいにくチルドレンたちは全員が学校の制服姿だった。
四人のチルドレンは、それぞれの思いを胸に腐肉の巨人を見上げた。
「これが……リリスね」
惣流アスカの言葉は沈黙をもって肯定される。
「この場所は……好きじゃない」
「思い出すのかい?」
ぽつりと零した碇シンジに、微妙な笑みを投げかける。
「今の時は別の流れになってるけど……ぼくにとってはすでに起こったことだから。思い出は消えないもの」
「やり直すだけでは救いにはならなかったんだね?」
「うん」
「人は思い出を忘れることで生きていけるんだよ?」
「……忘れてはならないこともある、って。父さんはそう言ってた」
「忘れたほうがいいことほど、忘れられないものなのかも知れないね」
諦念の響きが渚カヲルの言葉に込められた。
全ての人は、思い出に縋って足掻いてきたのかも知れない。
救いの道は、その思い出を持ち続けることなのか、あるいは手放してしまうことなのか、どちらでもあり、どちらでもなかった。
「弐号機はどう?」
「そろそろ限界、かな」
「アスカの弐号機だし。壊すわけにはいかないよね」
「あ、あったりまえでしょ!」
はっと我に返った惣流アスカは、リリスから視線を少年に移す。
弐号機パイロットという立場にすでに拘りはないが、それと弐号機の機体の破壊とは別問題だった。
「……でも、どうすんのよ?」
安心してよ、と笑って右の手をリリスに向ける。
巨人の胸を貫いていた長大な槍が、微妙に振動を始めた。
「槍が原子炉の制御棒のような役目も果たすって、前に教えたよね?」
「うん、聞いたわよ」
「アダムとかリリスを抑えることも出来る。使徒はアダムの子どもみたいなもんだからさ、対抗できないんだ」
惣流アスカに記憶が巡る。
「そういうこと……」
『以前』、あまりにもあっけなく第15使徒を貫いたその力、そして弐号機に乗ってエヴァシリーズを殲滅寸前で、コピーに過ぎない槍にもなすすべなく刺し抜かれてしまったその力を思い出した。
「槍はアダムの力で制御できる。槍自身に逆らわれない限りね」
「逆らう? 槍って生きてるの?」
「命ってわけじゃないけど。遺伝子の固まりみたいなもんだよ」
槍自体に意思があるのかどうかは碇シンジもわからない。
少年が言ったのは、ロンギヌスの槍の代替として使われようとした『以前』の綾波レイの姿を思い描いただけのことである。
とはいえ。
ロンギヌスの槍はあたかも生命を持つように、震え輝きを放ち始めていた。
ドォン、と背後からの振動。
半壊したヘブンズドアを抜け、弐号機を振り払うようにして突き進む初号機の姿が現れた。
直立してはいない。
四つ足の獣に近い動きで這うように蠢く。
悟性を感じられぬ双眼の輝きが、舐めるように碇シンジの姿を射る。
「カヲルくん」
「ああ」
少年の赤い瞳が最後の命令を弐号機に伝える。
初号機の背後に被さりつき、弐号機の腕がその上体を引き起こした。
むき出しの胸部コアが、リリスの前面にさらされる。
瞬間。
空気を切り裂く音とともに、リリスの胸部を貫いていたロンギヌスの槍が脈動し、後ろざまに軌跡を描いて跳ね飛んだ。
その成長を抑制されていた腐肉の下半身がずるりと音を立てて増殖し、身体を支える十字架直下のLCLの海に到達したとき、すでに初号機の姿はヘブンズドアの向こう、塩の砂漠へともんどりうって吹き飛ばされていた。
それは『以前』、弐号機が迎えた最期の姿にも似て。
深々とコアを槍に貫かれ、地につけないまま仰向けに槍に縫い止められて、その活動を止めた。
同時に、制御を解かれた弐号機が、うつぶせに地に倒れた。
「終わったようだね」
渚カヲルの一言が鎮魂歌だった。
再び、セントラルドグマを静寂が支配した。
「初号機……いえ、目標、沈黙!」
メインモニタはロンギヌスの槍に貫かれた初号機の姿を捉える。
中央作戦室に、ほうっと安堵の空気が流れる。
「なんだかわかんないけど、目標は片づいた訳よね?」
鬼の作戦部長としてはなんとも頼りなげな言葉だが、他に言いようもなかった。
「第一種警戒体制に……」
「まだだ」
戦闘配置を解こうとした葛城ミサトを碇ゲンドウが押しとどめた。
「は?」
「これから始まるのよ……」
赤木リツコが震える声で呟いた。
「これで終わったのよね?」
惣流アスカの声が、静まっていた空間に響く。
「でもさ、槍を突き刺すだけなら弐号機だけでも良かったんじゃないの? アダムの力を借りる必要なんてあるわけ?」
「これからなんだよ」
「これから?」
碇シンジの言葉に首を傾げる。
それに答えるようにして。
「死海文書に語られる使徒の殲滅は終わりリリスは復活した」
渚カヲルが告げた。
「シンジくんの望みのままにね」
綾波レイが寄り添った。
「約束の時が来たのね……」
顔はあげない。
どこかに震えるような躊躇いがあった。そしてまた、とめどない期待の響きもあった。
「やっと、ね」
「これでいいのね?」
「この時のために……やってきたからね」
その様子に惣流アスカは、わき出るような苛立ちと違和感を感じる。
「どうゆう意味よ?」
「ねえ、アスカ?」
「え。なに?」
「閉塞した人類とか、エヴァの中で生きるとかってぼくには分からない」
なにを言い出すのか、と怪訝な顔を少年に向ける。
「だからぼくはもう一度、やり直したかったんだ」
「やり直すって……」
「サードインパクトをね。ぼくの救いの道を」
「な、なにいってんのよ?」
「ぼくはサードインパクトを経験した。それはゼーレが計画してたものでもなかったし、母さんが求めたものでもなかったし、父さんの望んだものでもなかった」
補完計画はゼーレのシナリオに沿って進んだが、依代たる碇シンジの心はそれを受け入れなかった。
全てのヒトの魂が一つになり、溶け合うことを拒否した。
……生まれてきてもなにもいいことはなかった。
……逃げたところにもいいことはなかった。
……ぼくがいなかったから。
「補完計画は失敗したし、ぼくの逃げ場所もやっぱりどこにもなかった」
碇シンジは淡い微笑みを浮かべながら淡々と語る。
「みんなが消えてしまうのは嫌だ。カヲルくんを殺すのも、綾波をリリスにするのも、ミサトさんが死んでしまうのも、リツコさんが殺されてしまうのも……母さんや……父さんがいなくなってしまうのも嫌だった」
「で、でも」
惣流アスカは頭に痺れを覚えながらも、もどかしげに口を開く。
「こうやってやり直して、みんなこうして生きてるじゃない!」
「でもぼくは知っている。みんな死んでしまったことを。ねえ、アスカ、アスカも死んだんだよ?」
「え、ええ!?」
「ぼくの知っているアスカはエヴァシリーズに喰い殺されて死んでしまった。じゃあ、今、ぼくの目の前にいるアスカは誰なの?」
「あたしはあたしよ! 殺されてなんかいない。そのサードインパクトのとばっちりだかなんだかで、時を戻って……」
「そんなはずないさ。だってサードインパクトの時にはすでにもうアスカは死んでたはずだもの。ぼくの記憶じゃあそうなってる」
「じゃ、じゃあ、あたしは誰だって言うのよ!」
「ぼくはね、最初は時を戻ったんだと思ってた。でも、そうじゃなかったのかも知れない。戻ったんじゃなくて、ぼくが自分の都合で再構成した世界だったのかも知れないって」
「再構成ですって?」
「アスカがね、ぼくを知らないアスカじゃなくて、ぼくを知ってるアスカだって分かったとき。それなのに、ぼくのことを憎んでも嫌がってもいないって思ったとき。そう気づいたんだ」
……この世界は、自分にとって都合がいいだけの偽物じゃないのか、と。
碇シンジは続ける。
「ぼくの夢に過ぎないのかも知れないって、ね」
「あんた、あたしを夢にする気? あたしの存在を幻だっていうの?」
「うん」
バシッ、と碇シンジの頬が鳴る。
惣流アスカは激高していた。
「なに勝手なこと言ってんのよ、バカシンジ!」
「間違ってると思うの?」
「間違ってるわよ!」
「そうかも知れない」
少年は肩をすくめた。
「どちらにしても、ぼくの記憶が消える訳じゃないもの。ぼくにとってはみんな死んでしまった人なんだよ」
「そんなの、あんたの問題じゃない!」
「そうだよ」
赤く腫れた頬を押さえる。
「だからぼくはぼくの思い出を消すために、サードインパクトを起こす。このままじゃあ、また戦自が攻めてくるかも知れないし、父さんだって父さんの考えがあるもの。ぼくには勝てなくなってしまう。
ぼくに出来るのは、だからぼくの意志でぼくのために補完計画を遂行することだけだったんだよ」
「そんな勝手な言いぐさ、許さないわよ!」
「ぼくはアスカを幸せにしてあげる」
「え?」
「綾波も、カヲルくんも、ね」
沈黙を守って見守っている二人を見やった。
「シンジくん」
「碇くん……」
「アダムの力はぼくにあるし、ロンギヌスの槍もちゃんとここにある。ぼくの意思でリリスによる補完ができるから」
全ての魂をひとつにするのではない、と言った。
「みんなの魂をぼくの夢から解き放つ」
「解き放つ、って……どういうことなのよ!?」
「ぼくの記憶を、みんなの中から消すんだよ」
「記憶を消すってなに!? あんた、死ぬ気?」
「違うさ。ぼくは神として広がる。ぼくはみんなの中で、みんなを感じながら生きていくんだよ。永遠にね」
碇ユイが、エヴァンゲリオンの中で生きると言ったことのそれは裏返し。
碇シンジは、内への収斂ではなく外への拡散を選んだということ。
「ぼくはみんなが生きていることを感じられるし、みんなはぼくの記憶を忘れることで生きていける。神という伝説だけを残してね」
「神、ですって?」
「はじまるよ」
光が生まれた。
ロンギヌスの槍が、初号機から戻ってきていた。
それは螺旋を描き、中央樹をかたちどる。
「待ちなさいよ! そんな勝手な話……」
惣流アスカの声は轟音のような光の海にかき消される。
ロンギヌスの槍に導かれ、碇シンジの身体がリリスへと浮遊する。
「ばかシンジ!」
輝きはますますその光度を増した。
光の波が暴風のように渦巻き、その中心にリリスの身体がある。
槍はその形状を歪め、碇シンジの身体を取り巻くように回転し、リリスの肉体と合わさり溶ける。
刹那。
再び鋭く長大な棒状の形態を取り戻し、リリスの胸を貫き射た。
巨人の顔にかけられていた七つ目の仮面が溶けるように落ちる。
その下から現れた貌は、碇シンジの相貌を持っていた。
妙なる光がさらに拡散し。
――そして補完が始まった――