第45話「ルシフェル」
チン。
電子音とともにエレベータの扉が開く。
「探したわよ」
惣流アスカは鋭い視線と冷たい笑みを投げつけながら、エレベータに乗り込んだ。
「レイ?」
降りようとしていた綾波レイを押しとどめて、ドアを閉ざす。
行き先の押されていないエレベータはその階に停留する。
「なに?」
綾波レイは視線を合わさない。惣流アスカはその背中を睨み付けた。
「シンジとあのカヲルってやつ、ずいぶん仲、良いみたいじゃない?」
「……そうね」
「今もぼけっと何やってんだかと思ったら、カヲルの実験が終わるのを待ってんだってさ」
「そう」
「どういうことよ?」
ダン、と踏み込む。
「あいつは使徒じゃないの? 加持さんに吹っ飛ばしてもらったはずじゃないの? 二人目、ってなんなのよ!?」
空気が研ぎ澄まされ、凍る。
ほんの数秒。
惣流アスカには数時間にも感じられる凝固。
やがて。
綾波レイは指をあげ、エレベータのボタンを押した。
最下層へと。
ぐん、と重力が揺らめき、エレベータは静かに下り始める。
「彼は使徒じゃないわ」
「だって!」
確かに以前、碇シンジが話していた。
渚カヲルという最後の使徒。そして自分はその力を借りている、と。
「わたしはなに?」
「あんた?」
綾波レイは振り向く。
「あなたはわたしがなにに見えるの?」
「あんたは……レイは人間でしょうが。ちょっと人形くさいけど、さ」
「そう?」
「それがどうしたってのよ」
「アスカ?」
「え?」
「……見せてあげるわ」
静かに綾波レイは微笑んだ。
惣流アスカがともあれ黙って付き従ったのは、初めて「アスカ」と呼びかけられた驚きのせいだった。
「こんなところにお出ましとは、珍しいな」
特殊監察部ネルフ本部分室。
事実上、加持リョウジの個室であるそこに、足音高く乗り込んできたのは葛城ミサト。
ぐいとデータディスクを顔の前につきつけた。
「これは?」
「フィフスのシンクロデータよ」
日向マコトがハッキングしたとまでは言わない。
ほう、と端末のデータドライブに挿入する。
数字の羅列がディスプレイを埋めた。
「なるほど、な」
「なにがなるほどよ」
いらだちを隠さない。
「彼、弐号機と見事にシンクロしたわよ。コアの変換もなしに、ね。システム上あり得ないってマヤは口を滑らしてたわ」
「ふむ」
「謎だらけよ。いえ、シンクロがどうのこうのだけじゃないわ」
ますます口調をきつくする。
「彼と初めて会った時。あの子たちは確かに警戒していた。それが……」
一変した。
惣流アスカはともかく、碇シンジと綾波レイは旧知であるかのように彼を受け入れた。
特に碇シンジは。
「カヲルくんの部屋はどうなってますか、カヲルくんの実験はいつからですか、カヲルくんの訓練はいつ終わりますか……まるで恋人を心配するって風情よ? 今もたぶん、彼と一緒にシャワー」
この親しさはなにを意味するのか。
あんたはなにかを知っているはず、と決めつけた。
「俺にもはっきりとは」
「まだ誤魔化すつもり?」
しかたない、とばかりに肩をすくめる。
「以前、話したろう? ゼーレがドイツで作っていた人の姿をした使徒」
「まさか?」
「そう、俺が破壊した使徒は、あの渚カヲルと同じ外見だったんだよ」
「彼は……使徒なの? でも」
「いや、シンジくんの態度を見る限り、そうじゃなさそうだ」
「じゃあ、なんなのよ?」
「ゼーレが送り込んできたことは違いない。使徒そのものでないとしても、同じ力を持つ存在だろう」
「使徒と同じ力……エヴァ?」
「エヴァというより、ダミーだな」
「ダミーってなによ? もっとはっきり言って」
「だから俺だってなにもかもは分からん。分かってるとすれば……」
「そう。シンちゃんはなにかを知ってるのね。いえ。全てはシンちゃんが握ってるの?」
「かもしれん」
加持リョウジは端末の電源を落とした。
「俺は俺の出来ることをやってきたさ。あとは見守るだけだ」
神の領域には手は出せない、と言う。
「なあ葛城。君はどうする?」
「あたしは……」
加持リョウジのように見守るだけ、と言い切る気にはなれなかった。
「あたしは、まだ死ぬ気はないわよ」
「そうだな」
加持リョウジは立ち上がった。
「とにかく、見届けようじゃないか」
ネルフ大浴場。
パイロット用ではない。本部宿舎に泊まり込む独身者用の厚生施設である。
しかし、ほとんど利用者はいなかった。碇ゲンドウが、予算の無駄遣いだと憎々しげに語ったという風聞が原因かも知れない。
その大浴場に、少年二人の姿があった。
「シンジくんに誘ってもらえるとは思わなかったよ」
渚カヲルは邪気のない笑顔を見せた。
「カヲルくんともう一度、入りたかったんだ」
「もう一度、って?」
だが、碇シンジの答えに、笑顔が消える。
「君と一緒にお風呂なんて初めてだよ?」
「ねえ、カヲルくん。カヲルくんのこと、話してよ」
碇シンジは気に留めない。
「ぼくのこと、かい?」
「うん」
湯船の縁に腰掛けながら問う。
腕の傷のせいで、湯船に身体を伸ばせないことが残念そうだ。
渚カヲルは肩まで湯につかったまま。
「どこで産まれたの?」
「アメリカだよ。でも子ども頃の記憶はないんだ」
「そうなの?」
「そんなことは気にならないけどね。人は哀しみを忘れることで生きていけるのさ。ぼくには今の時があるからね」
「わかるような気がするよ」
くすりと碇シンジは笑った。
「それで、今はなにを望むの?」
「どうゆう意味だい?」
「生と死は等価値? アダムに還りたい?」
渚カヲルはその紅い瞳を細めた。
「シンジくん。君はなにを知っているんだい?」
「ぼくが知ってるのは、カヲルくんが好意に値するってこと」
「え?」
「好きってことだよ」
言ってみたかったのかも知れない。
碇シンジは軽く頬を染めながらも上機嫌に微笑んだ。
カチリと小さな音をたてて、浴場の照明が落ちた。浴槽に流れ込んでいた湯も止まる。
薄暗くなった浴場に、碇シンジの声が響く。
「ぼくはもうカヲルくんを殺したくなかったんだ。だから、カヲルくんに魂が宿る前に、加持さんに頼んで、その身体を破壊してもらった」
「……なるほど」
「だから本当にびっくりしたんだよ、カヲルくんがやって来たとき」
「それで……睨み付けていたわけかい?」
「うん」
「君の言ったとおり。ぼくは二人目だからね」
「綾波が気づくまで、ぼくには分からなかった。カヲルくんのダミーシステムがもう完成してたんだね、ドイツ支部が破壊されたときには」
「らしいね。ぼくには記憶はない。記録で知っているだけさ」
「オリジナルのカヲルくんはエヴァと同じアダムの一次クローンだから。使徒として産まれたものだから。ぼくにはどうしようもないけど、分化したダミーなら綾波と同じ事だもの」
「ぼくをどうするつもりだい?」
「……本当の魂を返してあげるよ。僕の中にある、ね」
はじめの時に。
綾波レイを包み込んだそれと同じアンチATフィールドが、碇シンジと渚カヲルを今また包み込む。
原初の交感が金色の光の中で産まれ、そして収束した。
「シンジくん!」
ふらりと倒れかけた碇シンジの身体を、慌てて駆け寄った渚カヲルが抱き留める。
「カヲル……くん」
「どうしてぼくを戻したんだい? ぼくは君の中で良かったのに」
「その身体は使徒じゃないもの。……生き続けることができるでしょ?」
「……痛むのかい?」
同化していた渚カヲルの魂を失った碇シンジは、痛感を制御できなかった。
無くした左腕の痛みが、少年の顔を歪ませる。
「大丈夫だよ」
抱えられるようにして、浴場を出る。
「まったく。ガラスのように繊細だね、君の心は」
呆れたように哀しむように、しかし愛情を持って語る渚カヲルに、はにかんだような笑顔を向けようとしたとき。
「あ、カ、カヲルくん!」
唇はすぐに離された。
「不公平だとは思ってたんだよ。綾波レイにしろ惣流アスカくんにしろ、シンジくんにキスしてもらってるからね」
「あ、あのね」
焦る碇シンジを抑える。
「痛みを抑制してあげただけだよ。ぼくを戻しても、決意は変わらないんだろう?」
「……うん」
礼を言いながら、支えの手をふりほどく。
「もう残された時間はないもの。父さんやゼーレが動く前に終わらせる」
カヲルくんの力も、借りるよ?
そう言って右の拳を握った少年の瞳は、すでに静かだった。
常夜灯の微かな光だけが薄暗く反射するエヴァンゲリオン格納ケージ。
そこにはエヴァンゲリオン初号機と、それを見上げる男が対峙している。
濃いサングラスの奥の瞳は、ひしと初号機の双眼を捉える。
「間もなく最後の使徒が現れる。それを消せば……」
願いが叶うのか。
……ユイ。お前を裏切る結果になるかもしれん。
碇ゲンドウは初号機に碇ユイの面影を見ることができなかった。
「……父さん」
二つの影が、アンビリカルブリッジに立つ碇ゲンドウに近寄った。
「シンジか」
もうひとつの影は渚カヲル。寄り添うように立っている。
「なんの用だ」
「エヴァシリーズ。アダムより産まれし、人間にとって忌むべき存在。それを利用してまで生き延びようとするリリン。ぼくにはわかりませんよ」
「君は何者だ?」
「ぼくもまた作られし人。アダムの分身です」
「……老人たちか」
碇ゲンドウは理解したらしかった。
「あなたが綾波レイを産んだようにね」
「レイはアダムの分身ではない」
「分かってますよ。リリスでしょう? ロンギヌスの槍の代わりに使うおつもりでしたか?」
知っていたか、と碇ゲンドウは口元を歪めた。
「人は弱い存在だ。人は誰しも心の闇を怖れ、そこから逃げだそうとしている」
「それを否定すると?」
「老人たちは、始まりの時へと戻そうとしてる。人の原罪を取り除き、始原の時からやり直そうとしている。だが、そこには思い出はない。人の生きた証すら消し去ってしまう」
「だからエヴァですか? 人の形を捨ててでも、人の思い出を残そうと?」
「形にはこだわらん」
碇ゲンドウは初号機から目を逸らせ、微かな笑みを口元にはりつかせている渚カヲルを見据えた。
「生きてさえいればどこでも天国になる。欠けた魂を補い、人はエヴァとともに生き続けることができる」
「箱船、ですね。でも碇ユイさんは自らが神となることを望んだのでは?」
「母たる神だ。我々はそこへ還るだけに過ぎん」
「それがあなたの補完計画ですか?」
「そうだ」
「わからないよ。ぼくには父さんがなにを言っているのかわからないよ」
それまで沈黙を守っていた碇シンジが声をあげた。
「みんなが溶け合った世界。でも、それは違うんだ。……違うと思ったんだ」
「シンジ」
碇ゲンドウは息子の視線を捉える。
「お前はエヴァでなにを見た?」
「エヴァじゃないよ。ぼくはサードインパクトを知っている」
「知っている?」
狂気、ではないとは理解する。
だから、碇ゲンドウは語られる言葉を待った。
「シンジくんと初号機は生命樹を呼び起こす依代として使われた。それゆえに神としてのシンジくんがあるんです」
「どういう意味だ?」
「ぼくたちは、時を遡って今にいます。望まぬサードインパクトをやりなおすためにね」
「……それがお前の秘密か?」
信じたわけではない。
しかし、真実であろうとなかろうと、すでに碇ゲンドウのシナリオが立ち行かぬことは事実に思えた。
「ではなにを望む?」
「心も体もひとつになること。でも、母さんの中に溶け合わされるのは違うと思う」
「ユイを望まないというのか」
「ぼくはぼくだもの」
「碇ユイさんは戻します」
「なに?」
「母さんはサルベージする。初号機の中から出てもらうよ」
「待て!」
碇ゲンドウは初めて焦りの声をあげる。
「初号機はS2機関をすでに内蔵している。今、ユイを分離すれば」
「覚醒しますね、使徒として」
「……自分の手で使徒を作るつもりか?」
「死海文書に語られるリリスの覚醒に必要なアダムの分身、使徒の数は15体。あなたは箱船……エヴァンゲリオンとして初号機を作りましたが」
「本来の姿に戻すだけだよ」
碇シンジの声と同時に、渚カヲルの左手が煌めく。
ATフィールドの尖刀が、初号機の胸部装甲を破壊した。
むき出されるエヴァンゲリオン初号機のコア。
さらにアンチATフィールドの煌めきが螺旋を描いてコアを覆った。
薄暗かったケージが、瞬間、まばゆい輝きに満たされる。
やがて。
再び薄闇が戻ったとき、碇シンジの右の掌に赤い球体が乗っていた。
「これが……母さんの魂。コアだね」
「魂の結晶だから、遺伝子融合で人の形を掛け合わさない限り、ただの球体に過ぎないけれどね。確かにサルベージしたよ」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、始めるかい?」
渚カヲルに頷きながら、サルベージされた赤い球体を見つめている碇ゲンドウに問いかける。
「父さん。ぼくを我が儘だと思う?」
「ああ。子どもだな」
冷たい声音ではなかった。
それに押されるようにして、碇シンジは最後の言葉を告げる。
「でもぼくには他にないから」
ケージに明かりが灯った。
非常警報が喧しく鳴り響く。
その甲高い警報音をもかき消すごとくに。
それまで初号機と呼ばれていたもの――いや、第二使徒、ルシフェルが最後の使徒として咆哮をあげた。
電子音とともにエレベータの扉が開く。
「探したわよ」
惣流アスカは鋭い視線と冷たい笑みを投げつけながら、エレベータに乗り込んだ。
「レイ?」
降りようとしていた綾波レイを押しとどめて、ドアを閉ざす。
行き先の押されていないエレベータはその階に停留する。
「なに?」
綾波レイは視線を合わさない。惣流アスカはその背中を睨み付けた。
「シンジとあのカヲルってやつ、ずいぶん仲、良いみたいじゃない?」
「……そうね」
「今もぼけっと何やってんだかと思ったら、カヲルの実験が終わるのを待ってんだってさ」
「そう」
「どういうことよ?」
ダン、と踏み込む。
「あいつは使徒じゃないの? 加持さんに吹っ飛ばしてもらったはずじゃないの? 二人目、ってなんなのよ!?」
空気が研ぎ澄まされ、凍る。
ほんの数秒。
惣流アスカには数時間にも感じられる凝固。
やがて。
綾波レイは指をあげ、エレベータのボタンを押した。
最下層へと。
ぐん、と重力が揺らめき、エレベータは静かに下り始める。
「彼は使徒じゃないわ」
「だって!」
確かに以前、碇シンジが話していた。
渚カヲルという最後の使徒。そして自分はその力を借りている、と。
「わたしはなに?」
「あんた?」
綾波レイは振り向く。
「あなたはわたしがなにに見えるの?」
「あんたは……レイは人間でしょうが。ちょっと人形くさいけど、さ」
「そう?」
「それがどうしたってのよ」
「アスカ?」
「え?」
「……見せてあげるわ」
静かに綾波レイは微笑んだ。
惣流アスカがともあれ黙って付き従ったのは、初めて「アスカ」と呼びかけられた驚きのせいだった。
「こんなところにお出ましとは、珍しいな」
特殊監察部ネルフ本部分室。
事実上、加持リョウジの個室であるそこに、足音高く乗り込んできたのは葛城ミサト。
ぐいとデータディスクを顔の前につきつけた。
「これは?」
「フィフスのシンクロデータよ」
日向マコトがハッキングしたとまでは言わない。
ほう、と端末のデータドライブに挿入する。
数字の羅列がディスプレイを埋めた。
「なるほど、な」
「なにがなるほどよ」
いらだちを隠さない。
「彼、弐号機と見事にシンクロしたわよ。コアの変換もなしに、ね。システム上あり得ないってマヤは口を滑らしてたわ」
「ふむ」
「謎だらけよ。いえ、シンクロがどうのこうのだけじゃないわ」
ますます口調をきつくする。
「彼と初めて会った時。あの子たちは確かに警戒していた。それが……」
一変した。
惣流アスカはともかく、碇シンジと綾波レイは旧知であるかのように彼を受け入れた。
特に碇シンジは。
「カヲルくんの部屋はどうなってますか、カヲルくんの実験はいつからですか、カヲルくんの訓練はいつ終わりますか……まるで恋人を心配するって風情よ? 今もたぶん、彼と一緒にシャワー」
この親しさはなにを意味するのか。
あんたはなにかを知っているはず、と決めつけた。
「俺にもはっきりとは」
「まだ誤魔化すつもり?」
しかたない、とばかりに肩をすくめる。
「以前、話したろう? ゼーレがドイツで作っていた人の姿をした使徒」
「まさか?」
「そう、俺が破壊した使徒は、あの渚カヲルと同じ外見だったんだよ」
「彼は……使徒なの? でも」
「いや、シンジくんの態度を見る限り、そうじゃなさそうだ」
「じゃあ、なんなのよ?」
「ゼーレが送り込んできたことは違いない。使徒そのものでないとしても、同じ力を持つ存在だろう」
「使徒と同じ力……エヴァ?」
「エヴァというより、ダミーだな」
「ダミーってなによ? もっとはっきり言って」
「だから俺だってなにもかもは分からん。分かってるとすれば……」
「そう。シンちゃんはなにかを知ってるのね。いえ。全てはシンちゃんが握ってるの?」
「かもしれん」
加持リョウジは端末の電源を落とした。
「俺は俺の出来ることをやってきたさ。あとは見守るだけだ」
神の領域には手は出せない、と言う。
「なあ葛城。君はどうする?」
「あたしは……」
加持リョウジのように見守るだけ、と言い切る気にはなれなかった。
「あたしは、まだ死ぬ気はないわよ」
「そうだな」
加持リョウジは立ち上がった。
「とにかく、見届けようじゃないか」
ネルフ大浴場。
パイロット用ではない。本部宿舎に泊まり込む独身者用の厚生施設である。
しかし、ほとんど利用者はいなかった。碇ゲンドウが、予算の無駄遣いだと憎々しげに語ったという風聞が原因かも知れない。
その大浴場に、少年二人の姿があった。
「シンジくんに誘ってもらえるとは思わなかったよ」
渚カヲルは邪気のない笑顔を見せた。
「カヲルくんともう一度、入りたかったんだ」
「もう一度、って?」
だが、碇シンジの答えに、笑顔が消える。
「君と一緒にお風呂なんて初めてだよ?」
「ねえ、カヲルくん。カヲルくんのこと、話してよ」
碇シンジは気に留めない。
「ぼくのこと、かい?」
「うん」
湯船の縁に腰掛けながら問う。
腕の傷のせいで、湯船に身体を伸ばせないことが残念そうだ。
渚カヲルは肩まで湯につかったまま。
「どこで産まれたの?」
「アメリカだよ。でも子ども頃の記憶はないんだ」
「そうなの?」
「そんなことは気にならないけどね。人は哀しみを忘れることで生きていけるのさ。ぼくには今の時があるからね」
「わかるような気がするよ」
くすりと碇シンジは笑った。
「それで、今はなにを望むの?」
「どうゆう意味だい?」
「生と死は等価値? アダムに還りたい?」
渚カヲルはその紅い瞳を細めた。
「シンジくん。君はなにを知っているんだい?」
「ぼくが知ってるのは、カヲルくんが好意に値するってこと」
「え?」
「好きってことだよ」
言ってみたかったのかも知れない。
碇シンジは軽く頬を染めながらも上機嫌に微笑んだ。
カチリと小さな音をたてて、浴場の照明が落ちた。浴槽に流れ込んでいた湯も止まる。
薄暗くなった浴場に、碇シンジの声が響く。
「ぼくはもうカヲルくんを殺したくなかったんだ。だから、カヲルくんに魂が宿る前に、加持さんに頼んで、その身体を破壊してもらった」
「……なるほど」
「だから本当にびっくりしたんだよ、カヲルくんがやって来たとき」
「それで……睨み付けていたわけかい?」
「うん」
「君の言ったとおり。ぼくは二人目だからね」
「綾波が気づくまで、ぼくには分からなかった。カヲルくんのダミーシステムがもう完成してたんだね、ドイツ支部が破壊されたときには」
「らしいね。ぼくには記憶はない。記録で知っているだけさ」
「オリジナルのカヲルくんはエヴァと同じアダムの一次クローンだから。使徒として産まれたものだから。ぼくにはどうしようもないけど、分化したダミーなら綾波と同じ事だもの」
「ぼくをどうするつもりだい?」
「……本当の魂を返してあげるよ。僕の中にある、ね」
はじめの時に。
綾波レイを包み込んだそれと同じアンチATフィールドが、碇シンジと渚カヲルを今また包み込む。
原初の交感が金色の光の中で産まれ、そして収束した。
「シンジくん!」
ふらりと倒れかけた碇シンジの身体を、慌てて駆け寄った渚カヲルが抱き留める。
「カヲル……くん」
「どうしてぼくを戻したんだい? ぼくは君の中で良かったのに」
「その身体は使徒じゃないもの。……生き続けることができるでしょ?」
「……痛むのかい?」
同化していた渚カヲルの魂を失った碇シンジは、痛感を制御できなかった。
無くした左腕の痛みが、少年の顔を歪ませる。
「大丈夫だよ」
抱えられるようにして、浴場を出る。
「まったく。ガラスのように繊細だね、君の心は」
呆れたように哀しむように、しかし愛情を持って語る渚カヲルに、はにかんだような笑顔を向けようとしたとき。
「あ、カ、カヲルくん!」
唇はすぐに離された。
「不公平だとは思ってたんだよ。綾波レイにしろ惣流アスカくんにしろ、シンジくんにキスしてもらってるからね」
「あ、あのね」
焦る碇シンジを抑える。
「痛みを抑制してあげただけだよ。ぼくを戻しても、決意は変わらないんだろう?」
「……うん」
礼を言いながら、支えの手をふりほどく。
「もう残された時間はないもの。父さんやゼーレが動く前に終わらせる」
カヲルくんの力も、借りるよ?
そう言って右の拳を握った少年の瞳は、すでに静かだった。
常夜灯の微かな光だけが薄暗く反射するエヴァンゲリオン格納ケージ。
そこにはエヴァンゲリオン初号機と、それを見上げる男が対峙している。
濃いサングラスの奥の瞳は、ひしと初号機の双眼を捉える。
「間もなく最後の使徒が現れる。それを消せば……」
願いが叶うのか。
……ユイ。お前を裏切る結果になるかもしれん。
碇ゲンドウは初号機に碇ユイの面影を見ることができなかった。
「……父さん」
二つの影が、アンビリカルブリッジに立つ碇ゲンドウに近寄った。
「シンジか」
もうひとつの影は渚カヲル。寄り添うように立っている。
「なんの用だ」
「エヴァシリーズ。アダムより産まれし、人間にとって忌むべき存在。それを利用してまで生き延びようとするリリン。ぼくにはわかりませんよ」
「君は何者だ?」
「ぼくもまた作られし人。アダムの分身です」
「……老人たちか」
碇ゲンドウは理解したらしかった。
「あなたが綾波レイを産んだようにね」
「レイはアダムの分身ではない」
「分かってますよ。リリスでしょう? ロンギヌスの槍の代わりに使うおつもりでしたか?」
知っていたか、と碇ゲンドウは口元を歪めた。
「人は弱い存在だ。人は誰しも心の闇を怖れ、そこから逃げだそうとしている」
「それを否定すると?」
「老人たちは、始まりの時へと戻そうとしてる。人の原罪を取り除き、始原の時からやり直そうとしている。だが、そこには思い出はない。人の生きた証すら消し去ってしまう」
「だからエヴァですか? 人の形を捨ててでも、人の思い出を残そうと?」
「形にはこだわらん」
碇ゲンドウは初号機から目を逸らせ、微かな笑みを口元にはりつかせている渚カヲルを見据えた。
「生きてさえいればどこでも天国になる。欠けた魂を補い、人はエヴァとともに生き続けることができる」
「箱船、ですね。でも碇ユイさんは自らが神となることを望んだのでは?」
「母たる神だ。我々はそこへ還るだけに過ぎん」
「それがあなたの補完計画ですか?」
「そうだ」
「わからないよ。ぼくには父さんがなにを言っているのかわからないよ」
それまで沈黙を守っていた碇シンジが声をあげた。
「みんなが溶け合った世界。でも、それは違うんだ。……違うと思ったんだ」
「シンジ」
碇ゲンドウは息子の視線を捉える。
「お前はエヴァでなにを見た?」
「エヴァじゃないよ。ぼくはサードインパクトを知っている」
「知っている?」
狂気、ではないとは理解する。
だから、碇ゲンドウは語られる言葉を待った。
「シンジくんと初号機は生命樹を呼び起こす依代として使われた。それゆえに神としてのシンジくんがあるんです」
「どういう意味だ?」
「ぼくたちは、時を遡って今にいます。望まぬサードインパクトをやりなおすためにね」
「……それがお前の秘密か?」
信じたわけではない。
しかし、真実であろうとなかろうと、すでに碇ゲンドウのシナリオが立ち行かぬことは事実に思えた。
「ではなにを望む?」
「心も体もひとつになること。でも、母さんの中に溶け合わされるのは違うと思う」
「ユイを望まないというのか」
「ぼくはぼくだもの」
「碇ユイさんは戻します」
「なに?」
「母さんはサルベージする。初号機の中から出てもらうよ」
「待て!」
碇ゲンドウは初めて焦りの声をあげる。
「初号機はS2機関をすでに内蔵している。今、ユイを分離すれば」
「覚醒しますね、使徒として」
「……自分の手で使徒を作るつもりか?」
「死海文書に語られるリリスの覚醒に必要なアダムの分身、使徒の数は15体。あなたは箱船……エヴァンゲリオンとして初号機を作りましたが」
「本来の姿に戻すだけだよ」
碇シンジの声と同時に、渚カヲルの左手が煌めく。
ATフィールドの尖刀が、初号機の胸部装甲を破壊した。
むき出されるエヴァンゲリオン初号機のコア。
さらにアンチATフィールドの煌めきが螺旋を描いてコアを覆った。
薄暗かったケージが、瞬間、まばゆい輝きに満たされる。
やがて。
再び薄闇が戻ったとき、碇シンジの右の掌に赤い球体が乗っていた。
「これが……母さんの魂。コアだね」
「魂の結晶だから、遺伝子融合で人の形を掛け合わさない限り、ただの球体に過ぎないけれどね。確かにサルベージしたよ」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、始めるかい?」
渚カヲルに頷きながら、サルベージされた赤い球体を見つめている碇ゲンドウに問いかける。
「父さん。ぼくを我が儘だと思う?」
「ああ。子どもだな」
冷たい声音ではなかった。
それに押されるようにして、碇シンジは最後の言葉を告げる。
「でもぼくには他にないから」
ケージに明かりが灯った。
非常警報が喧しく鳴り響く。
その甲高い警報音をもかき消すごとくに。
それまで初号機と呼ばれていたもの――いや、第二使徒、ルシフェルが最後の使徒として咆哮をあげた。