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第40話「咀嚼」

「これは……魔窟だ」

 第13使徒と認定された悲運のエヴァ参号機との戦いから一週間後。

 碇シンジはようやく退院を許され、その足で葛城ミサトのマンションに向かった。

「これからもミサトさんと一緒に住みますよ」

 と以前から言っていた約束、というわけではない。

 松代での事故で左腕を骨折したため、しばらく自動車の運転が出来ないし通院にも便利だからと葛城ミサトは本部で寝泊まりしている。

 また加持リョウジが戻ってきているので、碇シンジが無理に背伸びして葛城ミサトの支えになる必要もない。

「レイも本部でいるんだし、あんたも本部で住めばいいじゃん」

 と惣流アスカの言葉もあるが。

 とりあえずはゆっくり風呂に入りたかったし、着替えもマンションにあるので一人帰ってきた。

 帰ってきたものの。

「風呂、どころじゃないよね」

 足の踏み場もなかった。

 食い散らかしたファーストフードの空箱、ビニール袋。転がるビールの空き缶。

「掃除……しなきゃ」

 溜息一つで箒を手にする。整理にかけてはやや潔癖性の少年である。

「うあ、黴だ」



 その住まいを魔窟と罵られた本人は。

「さぁ、今日こそは説明してもらうわよ?」

 ジオフロント本部施設の裏にある西瓜畑でつかみ所のない男に迫っていた。

「ああ。なにより大事なのは地温管理だ。だが、ジオフロントは一種の温室のような構造になってくれている。芦ノ湖の集光施設から光ファイバーを通して送られて来る光は常に一定だし、地温は上よりも2度も高い。ただ、この土壌は窒素肥沃度がやや足りないんだ。そこで衛生局に頼んで俺は最高級有機質肥料を手に入れることに……」

「なんの話をしてんのよ!」

「あ、いやだから西瓜の促成栽培のテクニックをだな……ま、待て、葛城。わかった!」

「分かってくれればいいんだけどね?」

 拳銃を脇のホルスターに戻す。

「で? あのドイツ支部の真相はなに?」

「全てを話すってわけにもいかないが」

 今度は加持リョウジが先手をとった。引き抜かれる前に、銃把を押さえる。

「始まりは16年前だ」

「セカンドインパクトの……」

「その前年のことさ。人類は神を発見したんだよ」

「神? 南極のアダムのことを言ってるの?」

「良い勘だ」

 軽くウィンクひとつを最後に表情を引き締めた加持リョウジは、静かに語り始めた。



「まさか鈴原がパイロットなんて……」

「あほ、ちゃうがな。なんやよう分からんけど、飾りもんみたいなもんなんや」

 廊下の片隅。

 鈴原トウジの腕に残るかすり傷を目ざとく見つけた洞木ヒカリが、欠席の理由を心配した。

 その答えは、少女を蒼白にさせるに十分だった。

「結局、わいが乗るはずやったロボットは事故でつぶれてしもうたさかいな」

 さすがに隠すべきところは守秘義務を守る。

「お払い箱、ちゅうわけやな」

「それにしたって」

「まあこないだ、惣流が言うてたやろ。パイロットになりたがるやなんて甘い、て」

「うん」

「あん時はようわからなんだけどな。あこまでボロクソに言わいでもええやないかて思たりもしたんやけどな」

 相田ケンスケへの同情は、しかし今は完全に消えていた。

 関わり合いになるべきものではない、と。

 鈴原トウジは明確に理解していた。

「シンジや惣流や綾波。ほんま、ようやっとれるで、あいつら」

 わいにはとても無理や、と笑う。

「そ、そうね。碇くんって鈴原に比べると少し、か弱そうなのにね」

 さりげなく目の前の本人を誉めたつもりだが、あいにく通じなかった。

「いや、あいつは弱ないで」

 見た目は確かに細いが。

「わいよりも芯、通ってるしな。なんとなく思うんやけど、相当辛い目に遭うたんとちゃうか?」

「そうなの?」

「そやさかい、惣流かて綾波かて、シンジにくっついとるのやろうが?」

「綾波さんは……でも、アスカはもしかして、鈴原のこと」

 なにをあほなことを、ときょとんとする。

「惣流はシンジにべた惚れやで。ま、ちょいと悔しいけど、しゃあないわ」

「だってこの間、屋上で」

 うぬ、と拳を握る鈴原トウジである。

「シンジのことだけが心配、と来たもんや。やってられへんわ」

 ややニュアンスが変わってしまっているのはご愛敬。

 だが、そばかすの少女はずいぶんその言葉に安堵したようであった。



「へっくち!」

 その噂の少女はネルフ本部で風邪でもないのに小さなくしゃみ。

 制服姿で、うろうろと所在なげに歩き回る。

 今日、退院だというので学校をさぼって病院に行ったというのに、行き違いになってしまっていた。

 学校に行ったはずはない。もう2、3日は休むという話であったからだ。

 本部のどこかでいるのかと舞い戻ってきた惣流アスカである。

「シンジ、どこ行っちゃったんだろ?」

 まさか葛城邸で掃除に勤しんでいるなどとは想像の埒外だった。

「またどっかでレイといちゃついてんじゃないでしょうね」

 憮然とした表情でパイロット控室のあるフロアへさまよい出たとき、その懸念の少女と鉢合わせした。

 華奢な身体を包む純白のプラグスーツが、儚げな色香を漂わせている。

「あ、ちょうど良かった。シンジ、知らない?」

「……知らない」

 綾波レイもまた。

 碇シンジを探していた。

「あんたはまた実験なの?」

 何気に問いかけたのだが、綾波レイの答えに顔を引きつらせることになった。

「今日なの!?」

 その言葉とほぼ同時に、警戒警報が本部を駆け巡った。



「駒ヶ岳絶対防衛線、突破されました!」

 青葉シゲルの報告に口元を歪める葛城ミサト作戦部長。

 ほぼ完成している地上防衛システムの全力をもってしても、使徒の侵攻をくい止めることができない。

 巨大でもなければ機敏そうでもない。エヴァンゲリオンとほぼ同じサイズ。だが幅が広い分、鈍重にも見える。

 そんな使徒だが、対空ミサイルの弾幕に怖じる気配もなく、楽々と第3新東京市に侵入した。

 肩に埋まった首のない顔状の文様から一閃。

「第1から第18番装甲まで損壊!」

 一瞬にしてジオフロント天井部の特殊装甲が破壊された。

「初号機パイロットは?」

「回収中です。予定ではあと10分」

「間に合わないわね。零号機、弐号機、発進。ジオフロント内で迎撃体制」

『了解』

 復唱は綾波レイ。

 惣流アスカは。

 中央作戦室サブモニタに緊張の表情を映す。

「アスカ?」

『了解!』

 うるさげに答えが返る。葛城ミサトの作戦指示も、聞いているのかどうか。

 ……妙に緊張してるわね?

 惣流アスカらしくない態度に不安を募らせる。

 ……頼むわよ、アスカ。使徒がなんであれ、殲滅しなきゃ、あたしたちの未来はないんだからね。

 これ以上の叱咤は逆効果だろう、声に出さずに心で祈る。

 開かれる戦端。

 刻々とモニタされる戦況。

 しかし、葛城ミサトの援護射撃と祈りも虚しく、経緯は思わしくなかった。



「強い……」

 惣流アスカは焦りに紅潮する。

 発令所の客観的な戦況判断はどうあれ、善戦はしているのである。

 『以前』は為すすべもなく敗退した弐号機。自爆以外の攻撃方法を思いつけなかった零号機。それほど最悪の推移ではない。

 使徒の繰り出す収束エネルギー線も、鋭い刃のような触手もかろうじてかわしながら攻撃を継続している。

 実際、ジオフロント侵攻後も使徒は本部施設への攻撃を出来ずにいるのだ。

 くい止めている、と言ってもいい。

 だが。

 使徒殲滅の目処は立たなかった。

 いかに相手の攻撃を知っていてもその決定的な能力差は埋められない。

「ばかシンジの来る前に!」

 惣流アスカは、今回は自分の手で勝ちたかった。

 『以前』のような体たらくはごめんだった。

 それなりに作戦も考えていなかったわけではない。

 ただ、これほどの能力差があるとは思わなかった。

 覚醒した初号機の力を認識していなかったのである。

『弐号機、下がって!』

 綾波レイの通信が入る。

 目の端に射出口から姿を現わした初号機を認める。いったん撤退して初号機とともに体勢を立て直そうと言うつもりだろう。

 零号機、弐号機がそれぞれに繰り出す単独攻撃ではこれ以上の戦いは不可能だと綾波レイは判断しているらしい。

「負けるもんですか!」

 しかし惣流アスカは、突撃した。

 無謀だった。

 無防備な姿勢で、使徒の触手……刃の前に自らの首をさらした。

「あ」

 シンクロは切れていない。

 ……首、今度は飛んじゃうかな……

 悔恨とともに死を覚悟した瞬間。

 弐号機の全周モニタが深紅に染まった。

 それは。

 初号機の吹き飛んだ腕。初号機の肩から吹き出す血しぶきだった。

「シンジ!」



「ぐぅっ」

 自分のコンソールに伊吹マヤは吐瀉物を吐き散らす。

 だがそれを責める者も揶揄する者もいない。

「シンジくん……」

 初号機エントリープラグ内の凄惨な映像に男性オペレータも言葉を失っている。

 間一髪、碇シンジの初号機が間に合ったが。

 弐号機を守るように立ちふさがった初号機の腕は使徒の触手に切断され、それと同期するようにして、碇シンジの腕も吹き飛んでいた。

 ぐずぐずに崩れた左腕の残滓がプラグ内LCLを漂う。

「せ、生命維持システム最大。シンクロカットして」

 赤木リツコの命令は実行されない。

「信号、受け付けません!」

「初号機、ATフィールド、出力増大!」

『きゃあ』

 弐号機と零号機がその中和すらできないATフィールドに吹き飛ばされた。

 使徒は。

 地に張り付くように拘束されてしまっている。

 瞬間。ザッとメインモニタの映像が途切れた。

「ATフィールド計測限界を超えました。モニタできません」

「シンジくんは!?」

「だめです、完全に通信途絶」

「アスカ! レイ! 初号機は?」

『わかんないわよ!』

『肉眼でも確認できません』

「また、なの?」

 第十使徒戦で見せた初号機の絶対領域。それが再び現出していた。



「碇くん……」

 綾波レイは怯える目で金色に輝く結界を見つめる。

 状況がわからない。可視光線領域さえ遮断されている。

 あるいは。

 生身の綾波レイのATフィールドを持ってすれば侵入が可能かも知れないが。

 今、零号機を降りることは無理だった。

「使徒が……?」

 強力無比のATフィールドで地面に縫いつけられていたはずの使徒の姿が消えていることに気づいた。

 ということは。

「融合……そう、使徒を取り込んでいるのね」

 碇シンジのやろうとしていることはようやく想像がついた。

 S2機関が必要だと言っていた。

 『以前』と同じく、今、使徒のS2機関を取り込むつもりなのだろう。

 それはいいとしても。

 結界の外に転がる初号機の左腕を見やる。

 初号機素体との直接のシンクロ。全てのフィードバックがそのまま生身の肉体にかかる。

 とすると。

「碇くんの腕は……」

 時間は沈殿するようにひどく遅く流れる。

 ……やはり結界に侵入しよう。

 そう決意したとき、唐突に初号機ATフィールドが消失した。

 血溜まりだった。

 使徒はすでに原型をとどめていない。

 細切れに引きちぎられた肉塊と化している。

 その中に、あちこちの装甲板……拘束具を内からの筋腫の盛り上がりで吹き飛ばした初号機の姿があった。

 使徒の臓物を全身に纏い、ぬめる血を滴らせている。

 彫像のようにその動きは停止している。

 発令所からのコントロールが回復したのだろう、エントリープラグが強制射出された。

『アスカ、レイ。急いで。エントリープラグを最優先で回収』

 発令所から震えるような低い命令。

 零号機を駆って初号機の元に急ぐ綾波レイは、その左腕が復元していることを確認したが。

 葛城ミサトの声は暗すぎた。



「シンジ! シンジ!」

 金茶の髪の少女が泣きじゃくっている。

 すがりついているのは地に横たわる少年の胸。

「こんなの、『以前』より酷いじゃない!」

 焼けこげた地面が黒くべっとりと濡れている。

 使徒の流した血。

 初号機の流した血。

 排出された初号機エントリープラグの血のLCL。

 そして少年の肩から染み出す血。

 惣流アスカに遅れて駆け寄った綾波レイは。

 左腕を失なった碇シンジの姿に呆然と立ちすくんだ。

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