第37話「消滅」
「ドイツ支部が……消滅!?」
ネルフ本部中央作戦室に怒号が飛び交う。
衛星回線を通じた緊急通信が絶え間なく暗号コードをやりとりしている。
パニックに近く混乱した職員が互いにぶつかり合いながら、関係各施設との連絡に大わらわとなっている。
「ドイツMAGIクローンとの双方向同軸回線、完全に遮断されています」
「国連軍に連絡を。静止衛星の映像をまわさせろ」
「衛星回線に切り替えて。予備搬送回路によるアクセスを試行」
「フランスが戒厳令? 確認しろ。軍事展開している国家は?」
「映像データ、来ます」
「国連安保委員会との連絡、とれましたが、返答は保留。向こうもパニックですよ」
使徒襲来ではない理由で、はじめて。
非常警戒警報がネルフ本部に響きわたった。
問題はネルフにとどまらない。
度重なる使徒の襲来で多大な被害を受けている日本、第3新東京市。国連直属の特務機関ネルフの本部が置かれている国であるとはいえ、所詮は住民は黄色人種である。
世界主要各国の代表者にとって、決して心の表面に出ている感情ではないが、どこか他人事という深層心理が拭えない。
だが。
ドイツは歴とした白人種の国家だ。新世紀の世界経済を牛耳る欧州共同体の中心として古い歴史も持つ。
形式上、支部とはいえ、国連にとっては事実上本部と考えられていたドイツネルフ。
この通信途絶は世界的な衝撃となっていた。
最初にフランス、次いでソ連、アメリカが急遽ドイツに向けて戦力を派遣した。
通信途絶の原因は不明だが。
これが使徒によるものであるとするならば、日本のそれのように笑って看過できる問題ではない。
そしてまた。
ドイツに本拠を置くとある世界的な宗教団体が。
現在の国連の要であったからである。
錯綜した情報が、ようやく災害の状況を形作るまでにまとまったのは、最初の警報より数時間後のことであった。
「完全消滅ではないのだな?」
総司令執務室。天井壁に描かれたセフィトロの樹の下で冬月コウゾウが手にする電話にきつく問いかけている。
『ドイツ支部中央施設に多大の被害が出ている模様で電子システムは全て完黙していますが、国連軍経由の情報では施設構造は残っているようです。生存者も多数、収容されています』
「原因はつかめたのか?」
『それはまだ。わかり次第、ご連絡します』
「たのむぞ」
その横でディスプレイに映し出される記録データに見入る碇ゲンドウ。
静止衛星を通じて電送された爆発消失の瞬間を捉える記録映像。
身じろぎもしない。
「どうだね? やはり新造エヴァの実験失敗かね? あるいはS2機関の?」
「いや、中心がずれている」
「ずれている?」
「旧区画だ。ゲヒルン時代の施設が爆心に見える」
横から覗き込む冬月コウゾウ。ネルフに身を置いたときに説明された資料を思い出そうとするそぶり。
「どういうことかね?」
「アダムの還元を行なっていた施設だ」
「ゲヒルンの遺伝子研究所か? しかし、アダムをこちらに移送してからは意味がない。閉鎖したということではなかったのか?」
「なにか、続けていたのだろう。我々にも隠していたようだな」
「日本人は信用がおけん、か?」
「さあな。つまらん話だ」
「どちらにせよ、委員会からの連絡待ちか。キール議長、無事なら良いがな」
冬月コウゾウの言葉に頬を歪める碇ゲンドウである。
ゼーレ。キール・ローレンツ。
碇ゲンドウたちにとっては欺くべき相手であり邪魔な存在ではあるのだが。同時にゼーレを今失なうことは、全ての計画の破綻を意味している。
なんらバックを持たない日本人に過ぎない碇ゲンドウの強権は、碇ユイという妻を介したキール・ローレンツとの個人的関係に全てを負っていると言えた。
疎むべき相手の身体の心配をせねばならない。
皮肉なもんだな、と冬月コウゾウは嗤った。
病室で少年は眠る。
カーテン越しの柔らかな陽の光が、そのやつれ果てた頬を照らす。
静寂に、点滴の落ちる音さえ響きそうな空間。
その姿を静かな赤い瞳で包みこむように立つ綾波レイである。
話すべき事があるのだが、眠りをさますことに逡巡している。
ふと流した視線が、ベッドサイドの果物籠に落ちる。
……林檎、剥けるように練習しておこう。
今はまだ食事の摂れる状態ではないが。もう少し快方に向かえば、いつかのように今度は自分が看病をしてあげよう、と。
心に消えない懸念を軽く明るい想いにすり替えて、綾波レイは碇シンジを見つめていた。
「……ん、綾波?」
気配を感じたのだろうか、薄く目を開ける。
「碇くん」
「来てくれてたんだ。今日は実験は?」
首をふった。
「今日は休み。本部は非常事態シフトに入っているわ」
「使徒?」
ふたたび首をふって否定する。
「ドイツ支部よ」
「ああ……加持さん、やってくれたんだ。うまくいったのかな?」
「ええ、たぶん」
綾波レイとはいえ、そこまでの情報はまだ入手できていない。
「……よかったの?」
「うん」
躊躇いがちな綾波レイの問いに微笑んだ。
「これはカヲルくんが決めたことだから。使徒として覚醒する前に肉体を消滅させるって」
アダム還元作業において。
ゼーレが極秘裏に行なったオリジナルクローンの生成。
それは本来、ダミーシステム KAWORU の素体であったのだが、『以前』は17番目の使徒として送り込まれてきてしまった。
「この手でカヲルくんを殺すのなんて、もう嫌だからね」
シーツの中で、碇シンジは右手を握るように動かした。
辛い思い出が甦ったのか、やつれた顔にもさらに苦渋の色が走る。
「碇くん……」
綾波レイはシーツ越しに少年の右手を軽く握った。
「あ、ごめん。カヲルくんはぼくの心と体の中で生きているから」
取り繕うように微笑む。
やせ細っているためか、その微笑みはどこか痛ましい。
「わたしも……」
「シンジ! どうなの?」
病室のドアが開き、明るい声が響く。
やや大きすぎるのは、綾波レイの姿を見かけたからだろうか。
「アスカ」
「お見舞いに来てやったわよ。あら、レイも来てたんだ」
わざとらしいよ、と苦笑する碇シンジである。
「アスカ、学校は?」
「今日は休んだ。ここじゃわかんないけど、本部、ごったがえしてるわよ」
「ドイツ支部のことでしょ?」
「レイに聞いた? 消滅だって。加持さん、大丈夫なのかな」
「消滅?」
驚いた声で問い返す。
「そうよ。なんか、半分かた、吹っ飛んだそうよ」
「そうなの?」
綾波レイの顔をみやる。
「ええ」
綾波レイが言い淀んでいた部分だった。少年の希望は渚カヲルの素体の破壊であって、支部の破壊ではない。
加持リョウジの判断によるものなのか、あるいは不手際があったのか。
「そうか……そうなるのかな」
「シンジ、なんか知ってたの?」
「うん。加持さんの工作なんだ。ぼくが頼んだから」
へえ、と今度は惣流アスカが驚いた。
「あ、あんた、えらく暗躍してるのね?」
「そういうわけじゃないけど。カヲルくんのことでね」
「ああ」
惣流アスカも漏れ聞いていた情報で納得する。
「そのカヲルってヤツの始末を加持さんに頼んだわけね?」
「でも、そんな大爆発になるとは思わなかった」
呆然としたふうに呟く。
「大胆なんだか、臆病なんだか分かんないこと言うんじゃないわよ」
「アスカだって向こうに友達とかいたんじゃないの?」
「ああ、そんなの心配してんの」
見舞い用のパイプ椅子を取り出して、よっと座る。
「施設は吹っ飛んでるけど、死人はそんなに出てないみたいよ」
「だってさ」
「甘いわよ。戦争やってんだからさ」
ドイツで軍事教練も受けている惣流アスカと、本質的に真面目な中学生に過ぎない碇シンジとの感覚の差であるらしい。
「いちいち気にしてたんじゃ、やってられないわよ?」
「うん」
しかし、納得できかねる表情で唇をかんだ。
「加持さんも心配だしね」
「加持さんなら大丈夫でしょ。あんたとは違うって」
実は惣流アスカもその点は気にしていたはずなのだが、碇シンジの落ち込みようにあっさりと逆に回った。
「レイもそう思うでしょ?」
「……ええ、そうね」
「ま、それよりさ、あんた早く治しなさいよ。使徒はまだ来るんだから」
言葉はぞんざいだが、表情は心配そうである。
意識や言葉ははっきりしているものの、少年の様子は相当の重病人といった体であるからだ。
「生身のATフィールドってそんなにきついもんなの?」
「ううん。心の力だから、身体にはあんまり関係ないはずなんだけど……」
虚数空間で16時間、飲まず食わずの上に、精神力を振り絞った。
身体は、あるいは、心がかたちづくるものなのかも知れない。ATフィールドが消失すると、人はそのかたちを保てなくなるのだから。
「綾波にも心配かけないって約束したのに、嘘ついちゃって」
「いい」
「あたしも心配して上げてるわよ」
「うん。ありがとう」
「ま、ゆっくり休みなさいよ」
「早く治せっていったり、どっちなのさ?」
「あー、男のくせに細かいこと言うんじゃないわよ!」
碇シンジは声を上げずに笑った。
「少し、眠るよ」
「……そうね」
「じゃ、また来てあげるから」
「うん」
目を閉じた少年の顔をしばらく眺めてから。
惣流アスカは綾波レイに「ちょっとつきあって」と目顔で呼びかけた。
本部分析室に、発令所スタッフが集う。
床面に組み込まれたパネルが、一連の記録映像を映しだしている。
「強力なATフィールドまたはそれに酷似したものが発生、ドイツ支部のほぼ3分の2を飲み込みました」
日向マコトがレポートする。
「ドイツ支部との連絡は、駐屯した国連軍経由でつきました。死傷者の実数はまだ報告されていませんが、ドイツ支部は放棄決定だそうです」
「放棄?」
「残った施設、スタッフはアメリカ第2支部へ移管されます」
「アメリカ? フランスじゃなくて?」
「その辺りはよく分かりませんが、移管先はアメリカです」
「政治的判断、ってやつかしらね?」
「エヴァ八号機は?」
「素体の損傷が激しく、これも放棄だそうです」
「損傷? S2機関の実験事故じゃなかったの?」
S2機関の暴走であれば、損傷どころではすむまい。
「事故原因については調査中とのことです」
「S2機関は?」
「それは残っているようですが。それもアメリカへ移管されるようです」
「ふうん。CIAあたりの謀略臭いけど?」
「それはないんじゃないですか。アメリカ政府はエヴァにあまりいい顔をしていませんから」
「でも資金の流入はあるんじゃない?」
「そうですね……」
憶測は飛び交うが、不十分な情報を元にした推測では妄想に過ぎない。
また、ネルフ本部が懸念すべき問題でもなかった。
葛城ミサトは。
ドイツにいるはずの加持リョウジを心配していたが。
彼の辞令は偽造である。下手にドイツに問い合わせることははばかられた。
……あのバカ、なんかやったんじゃないでしょうねえ。
作戦部長の表情は暗かった。
地上へ向かうリニアトレイン。
碇ゲンドウと冬月コウゾウが向かい合い、ジオフロントを車窓から見下ろす。
「キール議長、無事だったようだな」
「ああ。アメリカへ渡るそうだ」
「事故原因はわかったのかね?」
「そぶりも見せん。わからないはずはないだろうが」
「しかし、ここに来て大きな損失だな」
「我々には幸いだ。死海文書にない事件も起きる。老人にはいい薬さ」
「ふむ。そうだな」
「……米国から参号機が移送される」
「ここにかね?」
冬月コウゾウは少し驚いたようだった。
「アメリカはドイツの事故を起動実験の失敗と考えているようだ。第二支部をドイツのスタッフに明け渡したが、第一支部の機体はこちらで起動実験をしろと言ってきた」
「勝手なもんだな」
「エヴァ関連の需要は欲しても、エヴァそのものは要らんということだろう」
いつになく饒舌なのは、碇ゲンドウも呆れているからかも知れなかった。
けたたましく目覚ましが鳴る。
もそもそと布団から手を伸ばし、たたきつけるようにして止める。
「はぁ」
しばらくその姿勢で凍ったように固まっていたが。
やがて意を決して、ばさり、と布団を跳ね上げる。
寝乱れたタンクトップから豊満な乳房がまろび出る。そこそこの経験はあるのに変色しない乳首が麗しい。
が。それを見て欲情してくれる男性は残念ながら誰もいない。
一人で朝を迎える、葛城ミサトであった。
「めんどくせ」
碇シンジはまたも入院中。
「治ったら帰りますから」
そう言ってくれはしたが、退院の目処は立たず。
綾波レイも、移管を正式に申し渡されたわけではないが、本部施設から帰ってこない。
惣流アスカは、相変わらずの宿舎住まい。
「なーんかねえ」
ぼさぼさの髪をかきむしり、あくびをひとつ。
「まあ、自宅で眠れるだけ、あたしはマシかぁ」
総司令、副司令とも留守中、責任を負わされていた頃の忙しさほどではなくなっている。
しかし、あの頃よりも精神的に追いつめられているような気もする。
「加持くんがいないせいかな」
ふと、漏らしてしまった本心にまた溜息を重ねる。
……シンジくんも。なんか、追いつめられてるわねえ。
無意識に片手で撫でる腹部の傷痕。その引きつりが、ますます朝を暗くする。
ともあれ。
今日も一日が始まるのだ。
汗で湿った衣類を無造作に洗濯機に投げ込み、その上に干されているパンティを一枚、つかみ取るように手に取る。
熟れた肢体が隠されていくうちに、作戦部長の顔が戻っていく。
気怠い朝の動作の繰り返し。
その怠惰を、チャイムの音が割った。
「おはようございます!」
元気な声が二つ、重なる。
「あらぁ、鈴原くんに相田くん。ひさしぶりね。どしたの?」
「まだ碇のやつが学校へ来えへんのんで」
「心配して伺ったのですが」
「ああ、入院してるって言わなかったっけ?」
「惣流さんから聞きましたが、お加減はどうでしょうか」
「ん、まあ、もうちょっとかかりそうだけど。元気は元気よん」
答えながらも少し不審に思う葛城ミサト。
なんで今さら、といった内心を笑顔で隠す。
「そら良かったですわ」
「あの……」
言い淀んだのは相田ケンスケ。
「ん?」
がばと見事な腰から90度の礼をされた。
「今日は、葛城三佐にお願いがあって参りました」
「へ?」
「自分を、自分をエヴァンゲリオン参号機のパイロットにしてください!」
思わずひきつる葛城ミサトの前に、相田ケンスケはあくまで真剣だった。
ネルフ本部中央作戦室に怒号が飛び交う。
衛星回線を通じた緊急通信が絶え間なく暗号コードをやりとりしている。
パニックに近く混乱した職員が互いにぶつかり合いながら、関係各施設との連絡に大わらわとなっている。
「ドイツMAGIクローンとの双方向同軸回線、完全に遮断されています」
「国連軍に連絡を。静止衛星の映像をまわさせろ」
「衛星回線に切り替えて。予備搬送回路によるアクセスを試行」
「フランスが戒厳令? 確認しろ。軍事展開している国家は?」
「映像データ、来ます」
「国連安保委員会との連絡、とれましたが、返答は保留。向こうもパニックですよ」
使徒襲来ではない理由で、はじめて。
非常警戒警報がネルフ本部に響きわたった。
問題はネルフにとどまらない。
度重なる使徒の襲来で多大な被害を受けている日本、第3新東京市。国連直属の特務機関ネルフの本部が置かれている国であるとはいえ、所詮は住民は黄色人種である。
世界主要各国の代表者にとって、決して心の表面に出ている感情ではないが、どこか他人事という深層心理が拭えない。
だが。
ドイツは歴とした白人種の国家だ。新世紀の世界経済を牛耳る欧州共同体の中心として古い歴史も持つ。
形式上、支部とはいえ、国連にとっては事実上本部と考えられていたドイツネルフ。
この通信途絶は世界的な衝撃となっていた。
最初にフランス、次いでソ連、アメリカが急遽ドイツに向けて戦力を派遣した。
通信途絶の原因は不明だが。
これが使徒によるものであるとするならば、日本のそれのように笑って看過できる問題ではない。
そしてまた。
ドイツに本拠を置くとある世界的な宗教団体が。
現在の国連の要であったからである。
錯綜した情報が、ようやく災害の状況を形作るまでにまとまったのは、最初の警報より数時間後のことであった。
「完全消滅ではないのだな?」
総司令執務室。天井壁に描かれたセフィトロの樹の下で冬月コウゾウが手にする電話にきつく問いかけている。
『ドイツ支部中央施設に多大の被害が出ている模様で電子システムは全て完黙していますが、国連軍経由の情報では施設構造は残っているようです。生存者も多数、収容されています』
「原因はつかめたのか?」
『それはまだ。わかり次第、ご連絡します』
「たのむぞ」
その横でディスプレイに映し出される記録データに見入る碇ゲンドウ。
静止衛星を通じて電送された爆発消失の瞬間を捉える記録映像。
身じろぎもしない。
「どうだね? やはり新造エヴァの実験失敗かね? あるいはS2機関の?」
「いや、中心がずれている」
「ずれている?」
「旧区画だ。ゲヒルン時代の施設が爆心に見える」
横から覗き込む冬月コウゾウ。ネルフに身を置いたときに説明された資料を思い出そうとするそぶり。
「どういうことかね?」
「アダムの還元を行なっていた施設だ」
「ゲヒルンの遺伝子研究所か? しかし、アダムをこちらに移送してからは意味がない。閉鎖したということではなかったのか?」
「なにか、続けていたのだろう。我々にも隠していたようだな」
「日本人は信用がおけん、か?」
「さあな。つまらん話だ」
「どちらにせよ、委員会からの連絡待ちか。キール議長、無事なら良いがな」
冬月コウゾウの言葉に頬を歪める碇ゲンドウである。
ゼーレ。キール・ローレンツ。
碇ゲンドウたちにとっては欺くべき相手であり邪魔な存在ではあるのだが。同時にゼーレを今失なうことは、全ての計画の破綻を意味している。
なんらバックを持たない日本人に過ぎない碇ゲンドウの強権は、碇ユイという妻を介したキール・ローレンツとの個人的関係に全てを負っていると言えた。
疎むべき相手の身体の心配をせねばならない。
皮肉なもんだな、と冬月コウゾウは嗤った。
病室で少年は眠る。
カーテン越しの柔らかな陽の光が、そのやつれ果てた頬を照らす。
静寂に、点滴の落ちる音さえ響きそうな空間。
その姿を静かな赤い瞳で包みこむように立つ綾波レイである。
話すべき事があるのだが、眠りをさますことに逡巡している。
ふと流した視線が、ベッドサイドの果物籠に落ちる。
……林檎、剥けるように練習しておこう。
今はまだ食事の摂れる状態ではないが。もう少し快方に向かえば、いつかのように今度は自分が看病をしてあげよう、と。
心に消えない懸念を軽く明るい想いにすり替えて、綾波レイは碇シンジを見つめていた。
「……ん、綾波?」
気配を感じたのだろうか、薄く目を開ける。
「碇くん」
「来てくれてたんだ。今日は実験は?」
首をふった。
「今日は休み。本部は非常事態シフトに入っているわ」
「使徒?」
ふたたび首をふって否定する。
「ドイツ支部よ」
「ああ……加持さん、やってくれたんだ。うまくいったのかな?」
「ええ、たぶん」
綾波レイとはいえ、そこまでの情報はまだ入手できていない。
「……よかったの?」
「うん」
躊躇いがちな綾波レイの問いに微笑んだ。
「これはカヲルくんが決めたことだから。使徒として覚醒する前に肉体を消滅させるって」
アダム還元作業において。
ゼーレが極秘裏に行なったオリジナルクローンの生成。
それは本来、ダミーシステム KAWORU の素体であったのだが、『以前』は17番目の使徒として送り込まれてきてしまった。
「この手でカヲルくんを殺すのなんて、もう嫌だからね」
シーツの中で、碇シンジは右手を握るように動かした。
辛い思い出が甦ったのか、やつれた顔にもさらに苦渋の色が走る。
「碇くん……」
綾波レイはシーツ越しに少年の右手を軽く握った。
「あ、ごめん。カヲルくんはぼくの心と体の中で生きているから」
取り繕うように微笑む。
やせ細っているためか、その微笑みはどこか痛ましい。
「わたしも……」
「シンジ! どうなの?」
病室のドアが開き、明るい声が響く。
やや大きすぎるのは、綾波レイの姿を見かけたからだろうか。
「アスカ」
「お見舞いに来てやったわよ。あら、レイも来てたんだ」
わざとらしいよ、と苦笑する碇シンジである。
「アスカ、学校は?」
「今日は休んだ。ここじゃわかんないけど、本部、ごったがえしてるわよ」
「ドイツ支部のことでしょ?」
「レイに聞いた? 消滅だって。加持さん、大丈夫なのかな」
「消滅?」
驚いた声で問い返す。
「そうよ。なんか、半分かた、吹っ飛んだそうよ」
「そうなの?」
綾波レイの顔をみやる。
「ええ」
綾波レイが言い淀んでいた部分だった。少年の希望は渚カヲルの素体の破壊であって、支部の破壊ではない。
加持リョウジの判断によるものなのか、あるいは不手際があったのか。
「そうか……そうなるのかな」
「シンジ、なんか知ってたの?」
「うん。加持さんの工作なんだ。ぼくが頼んだから」
へえ、と今度は惣流アスカが驚いた。
「あ、あんた、えらく暗躍してるのね?」
「そういうわけじゃないけど。カヲルくんのことでね」
「ああ」
惣流アスカも漏れ聞いていた情報で納得する。
「そのカヲルってヤツの始末を加持さんに頼んだわけね?」
「でも、そんな大爆発になるとは思わなかった」
呆然としたふうに呟く。
「大胆なんだか、臆病なんだか分かんないこと言うんじゃないわよ」
「アスカだって向こうに友達とかいたんじゃないの?」
「ああ、そんなの心配してんの」
見舞い用のパイプ椅子を取り出して、よっと座る。
「施設は吹っ飛んでるけど、死人はそんなに出てないみたいよ」
「だってさ」
「甘いわよ。戦争やってんだからさ」
ドイツで軍事教練も受けている惣流アスカと、本質的に真面目な中学生に過ぎない碇シンジとの感覚の差であるらしい。
「いちいち気にしてたんじゃ、やってられないわよ?」
「うん」
しかし、納得できかねる表情で唇をかんだ。
「加持さんも心配だしね」
「加持さんなら大丈夫でしょ。あんたとは違うって」
実は惣流アスカもその点は気にしていたはずなのだが、碇シンジの落ち込みようにあっさりと逆に回った。
「レイもそう思うでしょ?」
「……ええ、そうね」
「ま、それよりさ、あんた早く治しなさいよ。使徒はまだ来るんだから」
言葉はぞんざいだが、表情は心配そうである。
意識や言葉ははっきりしているものの、少年の様子は相当の重病人といった体であるからだ。
「生身のATフィールドってそんなにきついもんなの?」
「ううん。心の力だから、身体にはあんまり関係ないはずなんだけど……」
虚数空間で16時間、飲まず食わずの上に、精神力を振り絞った。
身体は、あるいは、心がかたちづくるものなのかも知れない。ATフィールドが消失すると、人はそのかたちを保てなくなるのだから。
「綾波にも心配かけないって約束したのに、嘘ついちゃって」
「いい」
「あたしも心配して上げてるわよ」
「うん。ありがとう」
「ま、ゆっくり休みなさいよ」
「早く治せっていったり、どっちなのさ?」
「あー、男のくせに細かいこと言うんじゃないわよ!」
碇シンジは声を上げずに笑った。
「少し、眠るよ」
「……そうね」
「じゃ、また来てあげるから」
「うん」
目を閉じた少年の顔をしばらく眺めてから。
惣流アスカは綾波レイに「ちょっとつきあって」と目顔で呼びかけた。
本部分析室に、発令所スタッフが集う。
床面に組み込まれたパネルが、一連の記録映像を映しだしている。
「強力なATフィールドまたはそれに酷似したものが発生、ドイツ支部のほぼ3分の2を飲み込みました」
日向マコトがレポートする。
「ドイツ支部との連絡は、駐屯した国連軍経由でつきました。死傷者の実数はまだ報告されていませんが、ドイツ支部は放棄決定だそうです」
「放棄?」
「残った施設、スタッフはアメリカ第2支部へ移管されます」
「アメリカ? フランスじゃなくて?」
「その辺りはよく分かりませんが、移管先はアメリカです」
「政治的判断、ってやつかしらね?」
「エヴァ八号機は?」
「素体の損傷が激しく、これも放棄だそうです」
「損傷? S2機関の実験事故じゃなかったの?」
S2機関の暴走であれば、損傷どころではすむまい。
「事故原因については調査中とのことです」
「S2機関は?」
「それは残っているようですが。それもアメリカへ移管されるようです」
「ふうん。CIAあたりの謀略臭いけど?」
「それはないんじゃないですか。アメリカ政府はエヴァにあまりいい顔をしていませんから」
「でも資金の流入はあるんじゃない?」
「そうですね……」
憶測は飛び交うが、不十分な情報を元にした推測では妄想に過ぎない。
また、ネルフ本部が懸念すべき問題でもなかった。
葛城ミサトは。
ドイツにいるはずの加持リョウジを心配していたが。
彼の辞令は偽造である。下手にドイツに問い合わせることははばかられた。
……あのバカ、なんかやったんじゃないでしょうねえ。
作戦部長の表情は暗かった。
地上へ向かうリニアトレイン。
碇ゲンドウと冬月コウゾウが向かい合い、ジオフロントを車窓から見下ろす。
「キール議長、無事だったようだな」
「ああ。アメリカへ渡るそうだ」
「事故原因はわかったのかね?」
「そぶりも見せん。わからないはずはないだろうが」
「しかし、ここに来て大きな損失だな」
「我々には幸いだ。死海文書にない事件も起きる。老人にはいい薬さ」
「ふむ。そうだな」
「……米国から参号機が移送される」
「ここにかね?」
冬月コウゾウは少し驚いたようだった。
「アメリカはドイツの事故を起動実験の失敗と考えているようだ。第二支部をドイツのスタッフに明け渡したが、第一支部の機体はこちらで起動実験をしろと言ってきた」
「勝手なもんだな」
「エヴァ関連の需要は欲しても、エヴァそのものは要らんということだろう」
いつになく饒舌なのは、碇ゲンドウも呆れているからかも知れなかった。
けたたましく目覚ましが鳴る。
もそもそと布団から手を伸ばし、たたきつけるようにして止める。
「はぁ」
しばらくその姿勢で凍ったように固まっていたが。
やがて意を決して、ばさり、と布団を跳ね上げる。
寝乱れたタンクトップから豊満な乳房がまろび出る。そこそこの経験はあるのに変色しない乳首が麗しい。
が。それを見て欲情してくれる男性は残念ながら誰もいない。
一人で朝を迎える、葛城ミサトであった。
「めんどくせ」
碇シンジはまたも入院中。
「治ったら帰りますから」
そう言ってくれはしたが、退院の目処は立たず。
綾波レイも、移管を正式に申し渡されたわけではないが、本部施設から帰ってこない。
惣流アスカは、相変わらずの宿舎住まい。
「なーんかねえ」
ぼさぼさの髪をかきむしり、あくびをひとつ。
「まあ、自宅で眠れるだけ、あたしはマシかぁ」
総司令、副司令とも留守中、責任を負わされていた頃の忙しさほどではなくなっている。
しかし、あの頃よりも精神的に追いつめられているような気もする。
「加持くんがいないせいかな」
ふと、漏らしてしまった本心にまた溜息を重ねる。
……シンジくんも。なんか、追いつめられてるわねえ。
無意識に片手で撫でる腹部の傷痕。その引きつりが、ますます朝を暗くする。
ともあれ。
今日も一日が始まるのだ。
汗で湿った衣類を無造作に洗濯機に投げ込み、その上に干されているパンティを一枚、つかみ取るように手に取る。
熟れた肢体が隠されていくうちに、作戦部長の顔が戻っていく。
気怠い朝の動作の繰り返し。
その怠惰を、チャイムの音が割った。
「おはようございます!」
元気な声が二つ、重なる。
「あらぁ、鈴原くんに相田くん。ひさしぶりね。どしたの?」
「まだ碇のやつが学校へ来えへんのんで」
「心配して伺ったのですが」
「ああ、入院してるって言わなかったっけ?」
「惣流さんから聞きましたが、お加減はどうでしょうか」
「ん、まあ、もうちょっとかかりそうだけど。元気は元気よん」
答えながらも少し不審に思う葛城ミサト。
なんで今さら、といった内心を笑顔で隠す。
「そら良かったですわ」
「あの……」
言い淀んだのは相田ケンスケ。
「ん?」
がばと見事な腰から90度の礼をされた。
「今日は、葛城三佐にお願いがあって参りました」
「へ?」
「自分を、自分をエヴァンゲリオン参号機のパイロットにしてください!」
思わずひきつる葛城ミサトの前に、相田ケンスケはあくまで真剣だった。