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第33話「深層」

 ネルフ本部、大深度地下施設中央部。

 リリスの眠る最下層ターミナル・ドグマへと続くその上層階。

 エヴァンゲリオンを産んだ科学と神話の交錯する遺伝子施設。そして、綾波レイという形のつくられた場所。

 巨大な脳髄を思わせる解析システムに繋がれた試験管。そのLCLに満たされた容器内に、綾波レイの姿があった。

 透明な裸体がゆったりとたゆとう。揺れる青い髪のしたに瞳は閉じられたまま。

 すでに数十時間が経過している。

 それを動かず見守る二つの影。

「どうだ?」

 やがて短く発せられる。碇ゲンドウの声は常に低く短い。

「もうしばらくかかりそうです」

 赤木リツコはその質問の意図を誤解しない。

「ダミーの身体は問題ありません。レイと完全に同期していますが、やはり魂は……」

「生み出せないか」

「初号機のコアを使えば、あるいは複製が可能かも知れませんが。すでに初号機はシンジくんで起動していますから。サルベージが成功するかどうか、たとえ成功しても人格が分裂する可能性が高いと思われます」

「レイの魂のコピーは無理だな」

「はい。無理に行なうと、レイ自身が」

「ATフィールドを保てないか」

「はい」

 再び支配した沈黙は赤木リツコが破る。

「明日のこと……」

 顔は動かないまま、碇ゲンドウの瞳が向けられる。

「葛城三佐からシンジくんに伝えてもらいました」

「そうか」

「シンジくんは了解したそうです」

「ごくろうだったな」

「いえ」

 微かに躊躇ったのち、赤木リツコは言葉を続けた。

「レイとシンジくん、このまま引き離すおつもりですか?」

「……そういうわけではない」

「明らかにレイはシンジくんに傾倒しています」

「それならばシンジを説得する」

 珍しく苦い表情を浮かべた。

「しょせん、我々が生き残る道はこれしかない」

「レイが許してくれなかったら?」

「誰も許してはくれんだろう」

 自嘲する。

「許しを請うつもりもない」

「……さみしい人ですね」

 赤木リツコの言葉には僅かな媚態があった。

 あるいは、身体を重ねながらも心の通わぬ男への怨言であったのか。

「作業はあとどのくらいだ?」

 誤魔化したわけでもあるまいが、事務的な質問に戻る。

「このままで約60時間です」

「そうか」

 三度の沈黙。

 赤木リツコの身体にかすかに淫靡な香りが漂った。



 無数の石塔が一面の荒地を埋め尽くしている。

 墓地、である。

 だが、花を手向ける者もいない。身寄りすらもその隣の墓標と化しているからである。

 セカンドインパクトが奪った生命の名残。

 その無機質の中のひとつに、ぽつりと花束が置かれた。

「3年ぶりだな、二人でここに来るのは」

 背後からかけられる声に、碇シンジは墓前から立ち上がった。

 が、振り向かずに答える。

「ここには母さんはいないのに、ね」

「人は思い出を忘れることで生きていける。だが、決して忘れてはならないこともある。ユイはそのかけがえの無い物を教えてくれた」

「その確認のために来てるの?」

「そうだ」

 碇ゲンドウは肯定する。

「全ては心の中だ。今はそれでいい」

「父さんは母さんが正しかったって思ってるの?」

「……どういう意味だ?」

 少年は身体をかえして、父親に向き合った。

「母さんひとりが生き続ければそれでいいの? 他のものはなにも要らないの?」

 碇ゲンドウは無表情を続けた。

「レイになにを聞いた?」

「綾波は関係ない。ぼくの問題だから」

「……初号機か?」

「初号機はぼくのものだよ」

 頑なな表情を、碇シンジは見せた。

 その顔に碇ゲンドウはやや表情を和らげる。

「ユイが恋しいか」

「父さんはぼくを捨てたものね」

「捨てたわけではない」

「……わかってる」

「世界は人が生きていくにはあまりにもつらいからな」

「だからなの?」

「人は一人では生きてはいけないのだ」

「でも、母さんがいなくても父さんがいたのに?」

 少年の言葉はおもねりではなかっただろう。

 だから碇ゲンドウは息子に自分と同じ渇望を見た。

 だからやはり逃げるしかなかった。

「お前がなにを考えるにせよ、もう時は戻らん」

「……そうなのかな」

「私に従うなら、なにも言わん」

「初号機には乗るよ」

「そうか」

 さらに言葉を加えたのは、初めて見せる父親らしさであったかも知れない。

「レイの実験が遅れている。しばらくは本部に拘束する。レイとともに暮らしたいのなら、葛城三佐の家を出て本部に来るがいい」

「綾波は人形じゃない」

「……そうかもしれんな」

 しかし少年の言葉に頷きながらも碇ゲンドウの瞳は冷たさを取り戻していた。

「時間だ。先に帰る」

「父さん」

「……」

 総司令公務用垂直離着陸重戦闘機が着陸の轟音を響かせ始めていた。

 その音に紛れて、碇ゲンドウの最後の言葉はかき消される。

 碇シンジは父親の背中を、静かに見つめ見送った。



 家族連れ。大学生らしいカップル。援助交際にも見えるカップル。男ばかりの高校生のグループ。女ばかりの中学生っぽいグループ。

 そんな混雑の遊園地の中でも、惣流アスカは目立った。

 セカンドインパクト以後、個人の海外旅行はどの国も極端に制限されている。

 食糧事情、経済事情などから、密貿易や貨幣の流出を防ぐための措置であり、ために街で外国人の姿を見ることは首都圏ですらめったにない。

 そこに。

 どこか日本的な愛嬌を漂わせる碧眼金髪の美少女である。

 その体躯は14歳には見えない。日本の一般的な17歳くらいのプロポーションだろうか。

 そしてその美少女を連れ歩く、これもかなり美形ではあるが、飛び抜けて目をひくというわけでもない少年に、周囲の羨望が集まっていた。

 少年もその視線を充分に意識しているらしく、これみよがしな態度で惣流アスカをエスコートしている。

「……だからなのか」

 惣流アスカは納得したようにひとりごちた。

 そこそこの美少年。

 高校生だけあって、ファッションも洗練されており、同じ中学のクラスメイトたちとは違って語られる話題も大人びている。さりげなく手を握り、笑顔を向けてくる。

 14歳の少女にとっての交際相手としてはほぼ理想の少年。

 その彼を『以前』は「たいくつなやつ」と断じたが。

 ……あたしを見て、好きだって言ってるんじゃないからなんだ。

 決してつまらない男の子ではないのだが。

 少年にとって惣流アスカは自分を飾るファッションのひとつに過ぎなかった。

 ……そりゃ、話したこともないのにデートに誘うんだから。

 考えてみれば、好きも嫌いもない。

 見た目の華やかさ、美しさに、着けてみたくなっただけのこと。

 それが分かるからこそ、少年のおもしろおかしな話題も親切も、色あせて感じられる。

 ただ遊び歩くだけなら、女同士でだってかまいはしない。洞木ヒカリとショッピングしているほうがよほど楽しいだろう。

 ……あたしは。あたしを見て欲しいっていうのは、外見じゃない。

 惣流アスカという人格を。

 その全てを。

 受け入れ、認めてくれるのでなくては、少女の渇望は満たされない。

 この年頃の少年にそれを求めるのは、そもそも無理というものなのだが、惣流アスカはそれを当然と認められるほど大人でもない。

 だが、では自分は?

 エヴァパイロットであるということ。

 自分の才能を誇示すること。

 ……これは、飾りなんだ。あたし自身じゃない。

 『以前』はそれに気づけなかった。

 飾りに過ぎないことを、自分の本質と見誤った。

 一人になることの怖さからの逃避を、自らの力強さだと思いこんだ。

 結果、心を開けず、他人のシンクロ率との差に一喜一憂し、見た目の評価に腐心し、それが崩れたときに壊れざるを得なかった。

 ……でも、じゃあ、今は?

 ママが見守ってくれている。

 それに縋って、心を開く。だからエヴァは動いてくれる。

 しかし、その先にあるのはなんなのだろう?

 負けられないという思い。

 その対象はどこにあるのだろう?

 ……使徒に勝つこと?

 そんなことを望んでいるわけではない。

 ……誉められること?

 エヴァを使って戦い、誉められることが、果たして自分自身を誉めてもらうことになるのか?

 ……シンジを守ってやりたいと思った。

 だが、それは、自分の能力を誇示することの裏返し。

 守るという行為自体が、惣流アスカにとってのファッション。

「ねえ、どうしたんだい、ぼんやりして?」

 何度も聞いたはずなのに未だに覚えられない名前の少年が覗き込んだ。

 ジェットコースターを待つ行列の途中。

「気分、悪いなら、休もうか?」

 その笑顔に、妙に錆びた味を感じてしまった。

 ……こいつに魅力がないのは、あたしがこいつを必要としてないからだ。

 だから彼女にとってはファッションにすらならない。

 ……じゃ、シンジは?

 シンジには負けられない、シンジには助けられたくない、シンジを守ってやるのよ。

 それは碇シンジに価値を見いだしていたということなのかも知れない。

 ……あんなサエないやつに、ねえ。

 エヴァが動かなくなっても、惣流アスカが誇示するものを無くしても。

 碇シンジは惣流アスカを見下したりはしないのだろう。

 彼はエヴァそのものに価値を見いだしてはいなかったから。

 惣流アスカがいくら彼を罵ろうと、彼は変わらず笑うのだろう。

 ……人の顔色をうかがっている。

 そう嫌悪したが。

 今の碇シンジは、別の思いを抱いているらしい。

 それでも、やはり毎日、弁当を作って渡してくれている。

 ……あいつは、なにを望んでエヴァに乗ってるんだろう?

 惣流アスカに楽しくしてもらいたいから。

 ……どういう意味で言ってたんだろう?

「ごめん。悪いけど、あたし、帰る」

「え? どうして!」

「用事、思い出しちゃったから。今日はありがと」

「ちょっと待てよ」

 周囲の野次馬的な視線に少年は真っ赤になった。

 ……ほら、あたしの気持ちじゃなくて、周りの目を気にしてるだけじゃん。

「じゃね。もう会えないと思うけど、元気でね!」

 遊園地の順番待ちの場で叫ぶにはまるで似つかわしくない台詞を残して、惣流アスカは駆け去った。

 器用に人混みを縫い、慌てて追いかける少年を引き離す。

 ……確かめてみよ。

 惣流アスカの足は、数日ぶりにコンフォート17マンションへ向かった。



「あれ? アスカ?」

「なによそれ、ご挨拶ね!」

 葛城ミサトのマンション。そのリビングで少年はひとり、ソファに座ってなにやら考え込んでいた。

「また、デート、すっぽかしてきたの?」

「今度はちゃんと、帰るって言ってきたわよ」

 黙って帰るのとさして変わらなかったが。

「でも、あんた、よくあたしのこと知ってるわね?」

「ん。心配だったし」

 その素直な返事に、戸惑った。

 誤魔化すように続ける。

「ファーストは? いないの?」

「綾波は本部だよ。もうここには帰ってこないかも知れない」

「どうして?」

「実験だから。ずっとここに住んでくれてたしね。予定が遅れてるって」

「……って、あんた、それで落ちこんでんの?」

「ちがうよ」

 碇シンジはくすりと笑った。

「父さんと会ってきたからね。ちょっと考えてただけ」

「ああ」

 お母さんのお墓参りか、と思い出した。

「今度は、なんか話したの?」

「話すって言っても……父さんには父さんの考えがあるしね」

「ふうん?」

「ぼくはぼくに出来ることをやるだけさ」

「ほんと、そればっかりね、あんた。じゃ、さ、今できること、やってよ」

「なに?」

「チェロ。あるんでしょ?」

「あ、そっか」

 『以前』は久しぶりにチェロを弾いていた時に惣流アスカは帰ってきた。

「……弾いてくんない?」

「聴いてくれるの?」

「ほら。さっさと!」

 碇シンジは苦笑しながら、部屋に戻り、ベッドの下を漁った。

 ケースごとリビングに持ち込むと、緩めていた弦を張り直す。

 惣流アスカは、それまで碇シンジが座っていたソファを占拠し、肘付きをして少年が調律する様子を見守った。

「じゃ、弾くよ」

「うん」

 静かに始まるバッハ、無伴奏チェロ組曲。

 ややかたい音色がリビングを満たし震わせていく。

 ……あれ?

 その震えに身を任せていた惣流アスカはふと違和感を感じる。

 ……記憶にあるのと、ちょっと違う感じね。

 音に込められた響きを言葉にできるほどには、惣流アスカは感性もなかったし大人でもなかったが、そこばくとした差があるように思えた。

 それは、あるいは少年の成長なのか、あるいはなにかを断ち切ろうとする焦燥なのか。

 とまれ、半目になり弓を弾く少年の指は、惣流アスカを静かな思索に誘なった。

 ……求めてる?

 碇シンジもなにかを求めているのだろう。

 惣流アスカがまだ形を取らず躊躇っているところから、一歩先に進んでいるようだった。

 同じ方向に、かどうかは分からないのだが。

 ……あたしの心、か。

 やっぱわかんないかな、まだ……

 最後の音が紡がれ、調べが静寂に取り変わられる余韻の中で、惣流アスカは呟いた。

「ね、シンジ」

「ん?」

「キス、しようか」

「え?」

「あ、あのね、アスカ」

 少し慌てているようだ。

「別に、『以前』をなぞる必要なんてないんだよ?」

「はぁん? 相変わらず意気地なしね」

「そういう問題じゃないだろ?」

 頑なに言い張るのは、惣流アスカの気持ちを理解できなかったからだろう。

「怖いの? それとも、ファーストへの義理立て?」

「なんだよ、それ」

「あんた、ファーストと、もうしちゃったの?」

「抱いてなんかいないよ」

「ちょっ……」

 キスのつもりで尋ねた惣流アスカは、逆に慌てた。

「こんのスケベ!」

「あのね、してないっていうのに」

 やや空気が軽くなった。

 その軽さに乗じて、惣流アスカは立ち上がり、少年に近づいた。

「キスはしたんだ?」

「……一度だけね」

「好きなの? あいつのこと」

「綾波は幸せにならなくちゃいけないんだよ」

「どういう意味よ?」

 答えを聞く前に、惣流アスカは唇を合わせた。

 息をとめ、強く押しつける。

 かち、と軽く互いの歯が当たった。

「ん……」

 碇シンジが身じろぎをすると同時に、顔を離す。

「……どうだった? あたしとの2度目のキスは?」

「うがい、しないの?」

「バカ!」

 少し心が痛んだ。

 さすがにキスの後でうがいなどしに走ったのは酷すぎる話だ。それは気づいていたが。

 といってまたことさらに指摘するものでもなかろう。

「あんたのキスが下手だったからでしょ」

 取り繕うように馬鹿にする。

「相変わらず下手だけどね。ファーストと1度しかしてないっての、信じたげるわ」

「ねえ、アスカ」

「なによ」

「なんで、ここにいるの?」

「え?」

 質問の意味が分からない。

 碇シンジはどこか沈んだ表情でじっと瞳を合わせていた。

「デート、途中で帰ってきたしね、暇だったから寄っただけよ」

「……そうじゃなくて、さ」

「なに言ってんのよ?」

 唐突に抱き寄せられた。

 抗う暇もなく、今度は碇シンジの唇が惣流アスカに重ねられた。

 舌で歯を割られる。

 伸ばされた舌先が惣流アスカの口腔を探り、驚きに震えていた舌をからめ取る。

 くるりと吸い取られ弄ばれ、熱い唾液が唇から溢れるように流される。

「あ……ん」

 惣流アスカの形の良い鼻梁から吐息が漏れたとき、少年の舌は歯先をつつき、そのまま舌で唇を押すようにして開放された。

「シ、ンジ……もうやめて」

 すでに離されている。

 合わされていた時間はごく短かったが、惣流アスカは初めての体験に唇の痺れが消えなかった。

 息が荒い。顔も真っ赤になっているだろう。

「どう、だった?」

 そう問いかける少年は、なぜか寂しそうな表情を浮かべている。

「あ、あんた、どこでこんな……こと、覚えてきたのよ?」

「ミサトさんに教えてもらった」

「ミ、ミサト!?」

 思いがけない名前に目を剥く。

「アスカは知らないんだよね? ミサトさん、死んじゃったんだよ」

「え、ええ?!」

 抑揚もなくさらりと告げた碇シンジの言葉に、惣流アスカは初めて、この少年が纏う不思議に透明な雰囲気、彼女の記憶との違和感の正体に思い至ったような気がした。

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