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第28話「使徒落下」

 すでに南極大陸は凍土ではなかった。

 一面に広がる赤茶けた海水がまるで地獄を思わせる。

 セカンドインパクトの中心地。林立する醜い塩の柱が、人智を越えた災害の真実を語る。

 そこには一切の生命がなかった。存在し得なかった。死海である。

 ただ、人類の鉄の艦隊のみが、その海を渡る。

「まさに死の世界だな」

 冬月コウゾウの嘆息に碇ゲンドウは無表情に答えた。

「だが原罪の汚れ無き、浄化された世界だ」

 二人の立つ重巡洋艦観測室の舷窓に、併走する航空母艦が浮かぶ。その甲板に固定された長大な1本の槍。

「人は罪にまみれ、もがき苦しみながらも生きることにあがく、か」

 そうだ、というように碇ゲンドウは顎をひいた。

「槍は回収された。しばしの生は我々にある」

「ロンギヌスの槍。エヴァンゲリオン。理解を絶するものを用いてまで生きていかねばならんのかね?」

「本質は分からなくとも利用は出来る。動きさえすればそれでいい」

「お前はいつもそれだな」

「人は生きるためにあるのだよ、冬月」

「生きていさえすれば……それがユイくんの望みだったからな」

 碇ゲンドウの答えは聞けなかった。

 慌てて入室してきた海軍士官が空気を破った。

「報告します。ネルフ本部より入電。インド洋上空衛星軌道上に使徒、発見とのことです」



「デート?」

「うん」

「マジマジ? ほんとにシンジくん、あたしを連れてってくれるの?」

 将来の生徒数増加を見越したのか、市立第壱中学校の図書室は広く、蔵書も多い。だが今はまだ教室すら全てが埋まっていない状態である。

 利用者はほとんどなく、放課後というのに僅か数人がまばらに見えるだけ。

 やや大きすぎた霧島マナの叫びを咎める者はいなかった。

「楽しんでもらえるかどうかは、わかんないけどね」

 碇シンジと二人並んで腰を掛け、前に大きな地図帳を広げている。

 第3新東京市南東に位置する箱根山を中心としたページだ。

「うれしいな」

「どっか、行きたいとこ、ある?」

「……どこでもいいよ」

 シンジくんと一緒なら、とまでは口に出さない。頬の赤さで語っている。

「湖、なんてどっかな?」

「あたしね」

「え?」

「湖、好きなの。見たかったの」

「そう、良かった」

 碇シンジは、どこか綾波レイにも似た透明な微笑みを浮かべた。

「南の埠頭から芦ノ湖の遊覧船に乗ろう? 駒ヶ岳はネルフの絶対防衛線があって武器とかでちょっと荒れてるけど、ロープウェイで山上まで行ったら、すごく景色が綺麗だから」

「うん。任せる」

「じゃあ、詳しい時間はまた電話するよ」

「うん。次の日曜日、ね?」

 にこっと笑って小指を伸ばした。

「ゆびきり」

「え?」

 少し照れたそぶりの碇シンジ。ためらいがちに小指を絡ませる。

「ばかシンジ!」

「アスカ?」

 図書室のドアを開け放して、仁王立ちをしている。

「あんた、訓練の時間、忘れてんじゃないでしょうね? 本部に行くわよ」

「探しに来てくれたの?」

「誰があんたなんか探すもんですか。相田のやつに聞いたらここだっていうからさ。レイが校門で待ってるのよ?」

 それを探すというんじゃないかな、と霧島マナは思ったが、賢明にも黙っていた。

「わかったよ。じゃあ、霧島さん」

「うん」

 出ていく二人を見送り、あけ広げられたままの地図帳に目を落とした霧島マナだったが。

 しばらく躊躇うように自分の小指を見つめた後、小走りに図書室を駆け出した。



「常識を疑うわね」

 とは葛城ミサトの言。

 衛星軌道上に突如姿を現した第十の使徒。

 言葉通り常識外れに巨大なフォルム。その一部を切り離し、ATフィールドに包まれた質量兵器として地表に撃ち込んできていた。

 弾道修正をしつつ、着実にネルフ本部に迫る。

「今までの弾射のように、身体の一部分にエネルギー集中している様子はありません」

 緊張にうわずった日向マコトの声。

「今度は……身体全体に高エネルギー反応があります」

「つまり?」

 葛城ミサトの質問には赤木リツコが答えた。

「次はここに。本体ごと落ちてくるわね」

 その言葉に、片方の眉をぴくりと上げる。

「その時は第3芦ノ湖の誕生かしら?」

 分裂する第七使徒を足止めするため使用されたN2爆雷で生まれた第2芦ノ湖。早雲山を削って湖と化した。

 次は第3新東京市そのものを削り、湖となるのか。

 だが、葛城ミサトのその皮肉を赤木リツコは呆れたように嘲った。

「なにいってるのよ。そんなどころじゃないわよ」

「え? じゃあ、本部ごと、太平洋に沈む?」

「あなた、ほんとにそれでも士官学校を主席で卒業したの?」

 物理学の基礎も身についていないのかと、溜息をつきながら首をふる。

「あの質量がATフィールドに包まれて落ちてくるのよ? セカンドインパクトどころじゃない、ジャイアントインパクトの再来だわ」

「それって?」

「地球規模で粉塵が広がるわよ。人類滅亡。逃げ場なんてどこにもないわ」

 発令所に声はなかった。

「MAGIの判断は?」

「エヴァを衛星軌道上まで打ち上げて、そこで血戦」

「勝率は?」

「エヴァの回収を期待せずとも、0コンマ00001パーセント。わたしが言うのもなんだけど、これは無理ね」

 いかにスーパーコンピュータMAGIといえど、不可能な設問への回答は出ない。

 ただのコンピュータであれば回答不能と諦めたであろうところを、非現実的でもなにがしらの案を提出できたことを誉めてやりたいと赤木リツコは感じる。

 が、このような勝率を算出してきたところをみると、MAGI自身、お手上げと言いたかったのだろう。

 不可能を可能にするのは、コンピュータではない。

 それが出来るのは。

 唯一、人間だけであった。

「どうするの? 今の責任者はあなたよ」

「パイロットは?」

 葛城ミサトの顔から表情が消えている。

 日向マコトはぞくりと背筋に快感が走るのを感じた。彼を惹きつけてやまない、武将の顔だった。

「定時訓練の時間だから。もうすぐネルフ本部に来るはずよ」

「わかった……第3新東京市に特別非常事態宣言発令を勧告してちょうだい。市民はいつものようにシェルタに避難」

「どうするんですか?」

「エヴァに賭けるわ」

 葛城ミサトの頭に浮かんだのは、あまりにも非常識な作戦だったが。

 非常識な使徒と非常識なエヴァ。このぶつかり合いが唯一の活路であるのかも知れなかった。



「あんた、着いて来ちゃったの?」

 ネルフ本部ゲート前。

 緊急呼び出しではなく定時訓練のため、碇シンジたちパイロット3名は電車で向かった。その後を追ってきたらしい霧島マナはえへへ、と笑った。

 綾波レイは無表情だ。

 惣流アスカもまた、さほど驚いた風でもない。『以前』もあったことだから。

「シンジ。これで分かったでしょ?」

 耳元に口を寄せる。

「なにが?」

「この女がスパイだってことよ。どこにネルフ本部に入りたがる奴がいるってのよ」

「ケンスケならやって来そうだよ?」

「あのバカは例外!」

「ごめんね。やっぱ迷惑だったよね?」

「いいんだ」

 碇シンジは動じなかった。

「案内するよ」

「案内ってあんたねぇ!」

 碇シンジのこの反応には怒った。

「だいたい、IDカードもないのに、どうやってゲートを通る気よ?」

 ジロリと霧島マナを睨んだ。

「シンジの背中にくっついて、とか言うんじゃないでしょうね」

「そうする?」

「ばかシンジ!」

「冗談だよ。加持さんにお願いする」

「加持さん? あんたバカァ? 加持さんだってそんなこと許すわけないでしょう!」

「いや、まあいいんじゃないか」

 ゲートが内側から開いた。

 いつものようにやや崩れた服装の加持リョウジだった。

 呆然とする惣流アスカ。

「すみません、加持さん」

「いや、いいさ。まずは確かめてみなくちゃな」

 よく意味のつかめない言葉が少年と青年の間で交わされる。

「マナちゃん、だったな。俺についておいで」

 シンジくん? とやや不安な眼差しを少年に向ける。

「大丈夫だよ。加持さんなら」

 落ち着いた笑いを霧島マナに見せる碇シンジ。

「それよりな」

 加持リョウジの声が低くなった。

「3人とも急ぐんだ」

「どうしたのよ?」

 事情がわからないままに不機嫌な惣流アスカ。

「使徒だよ」

「使徒!?」

 惣流アスカの驚きは本物だった。

 霧島マナのことで、すっかり忘れていたのだ。綾波レイも表情はほとんど変わらないまま、驚いているように思えた。

 ……にしても、街は静かだし。ミサトのやつ、あたしの影響でまともな作戦でも考えついたのかな? 今度は手で受け止めろ、なんて言わないでしょうね?



「やっぱり、手で受け止めろ、かぁ」

 げんなりと溜息をつく。

 ネルフ本部第2作戦室である。パイロット3人に命令を伝えた葛城ミサトは、すぐに起動準備をと言い残して、急くように発令所に戻っていった。

「成功したら高級レストランで好きなもの奢ってくれるったって……」

 レイは肉、食べられないんだし。結局、シンジの手料理が一番マシじゃない。

 またラーメン、ってのもねえ。

「アスカ?」

「なによぅ」

「嫌なら、出なくてもいいんだよ。ぼく一人でも」

「あんた!」

 いらいらと噛みついた。

「なにかっていえば、ぼく一人、ぼく一人って。なに考えてんのよ?」

「だってさ」

「あたしがそんなに信頼できないっていうわけ?」

「そうじゃないよ」

「まともなシンクロ率も出ないくせに、何言ってんのよっ」

「ぼくはアスカを守りたいだけだよ」

「守る? あたしを?」

 ぐいと指を突き出す。

「そんなセリフ、百年早いわよ。あんたはあたしが守ってやるのよ。あたしと弐号機がね! あんたごときに守られるほど落ちぶれちゃいないわ!」

「ねえ?」

 静かな声だった。

「アスカはなんでエヴァに乗ってるの?」

「はぁ?」

「ずっと聞きたかったんだ。どうして?」

 そういえば『以前』も聞かれた覚えがある。

 ……自分の才能を世の中に示すためよ。

 が、今は。

 少し違うような気がする。

「……負けられないからよっ」

「誰に?」

「誰にも、よ」

 ……ママが見守ってくれているから。

 ……シンジに助けられるのはもうごめんだから。

 ……だから今度は、自分のために、悔いがないように。

 ……シンジを守ってやることで。

 ……自分を見つめるために。

「でもさ」

 少し翳りを帯びた微笑みで指摘された。

「それって、エヴァでなくてもいいじゃない」

「どういうことよ?」

「勝つとか、負けるとかって。アスカはアスカなんだし。エヴァに乗ってなくても、アスカじゃなくなることはないのにさ」

 ……それは違うわよ!

 だが。言葉にする前に畳みかけられた。

「もしエヴァがなくなったら、アスカはどうするのさ?」

 胸が震えるように踊った。

 エヴァが起動できなくなったら。

 ……あたしは壊れてしまう。

 それは体験したことだった。廃人のように彷徨った。

 だが、起動できなくなった理由は分かっている。エヴァを動かすということの意味。

 エヴァに守られているということの意味。

 それを知っているから。

 心を開くということ、自分を見つめるということ。

 それが分かっているから、起動できなくなるなどということはない。

 いつでもママは私を守ってくれている。

 ……だからあたしはもう壊れることなんてない。

 しかし。

 それが問題を先送りにしている以上の意味はなかった。

 ……使徒を全て倒して、エヴァが必要でなくなって……パイロットの必要がなくなったら。

 その時の惣流アスカは、なんなのだろう?

「あ、あんたは」

 胸にわき出した不安を押し殺すように問い返す。

「シンジはなんでエヴァに乗っているのよ? 誉められるためってんじゃないの? お父さんに」

 それなら自分を見つめていない。心を開いていない。

 ……だからシンクロ率があがんないのよ!

「ちがうよ」

 あっさりと否定された。

「じゃあ、なに!?」

「ぼくは今出来ることをやっているだけだよ。アスカにも、綾波にも、霧島さんにも、楽しくしてもらいたいから」

「よ、よけいなお世話よ」

 碇シンジが言いたいことはよくわからなかった。

 わかろうとするべきなのかどうかさえ、わからなかった。

「レイはなんのために乗ってるのよ?」

「……絆だから」

「シンジとの?」

「ちがうさ」

 碇シンジが否定した。

「みんな、とのだよ」

 綾波レイは、僅かに目を細めて碇シンジを見つめた。

 綾波レイは。

 ……違わない。碇くんとの絆だと思うから。

 だが少年の求めるものは異なるのか?

 縋ることを覚えた綾波レイにも、惣流アスカと同じく、碇シンジの言葉をわかることができなかった。

「……あたしは負けらんないのよ」

 惣流アスカの呟きが残った。



「ちょっと加持くん?」

 制服の少女を連れて発令所に現れたのを葛城ミサトが見咎める。

「部外者を連れてこんなところに。何考えてんの、作戦行動中よ!」

 その剣幕にびくりと身体を震わせた霧島マナの肩をそっと叩く。

「特殊監察部の権限だよ。気にしないでくれ」

「あのねぇ」

 少女に対して悪意はないのだが。

「司令も副司令もいないからって、あんまり勝手、しないでよね」

「目標を最大望遠で確認!」

 青葉シゲルの声が響く。メインスクリーンに落下しつつある巨大な使徒の姿。

 作戦は始まっていた。拘っている暇はない。

 もう一度きつく加持リョウジをねめつけるだけで、モニタに視線を戻す。

「エヴァ全機。準備はいい?」

「零号機、初号機、弐号機、定位置にて待機完了しています」

 パイロットに通信を繋ぐ。

 サブモニタに各機のエントリープラグ内画像。

「いいわね、3人とも。作戦通り、距離一万までは MAGI が誘導します。以後は各自の判断で行動して」

『了解』

 短い言葉が重なって返る。

「エヴァとあなた達に全て任せるわよ」

 がんばって。

 最後の叱咤は伝えずに通信を切る。

 いまさら言葉を乗せても意味はなかった。

「加持さん」

 小刻みに身体を震わせる少女に、優しげな目を向ける。

「どうした? 怖いか?」

「あれが。使徒。エヴァですか?」

 霧島マナの声はかすれていた。

「シンジくんたち、こんな戦いをしてるんですか?」

「ああ、そうだ」

 発令所の他の面々には聞こえないように声を落とす。

「見ておくといい。使徒。エヴァ。俺たち人間の常識なんてとうに通用しない戦いさ。こんなものに立ち入る隙なんてないんだ」

 スクリーンでは、葛城ミサトの発令とともに3体のエヴァンゲリオンが最大戦速で駆けていた。

 目標落下予想地点まで、地表の障害物となる建築物を飛び越え、あるいは壊し、ひたすらに駆け抜ける。

「使徒、地表まで距離1000!」

「エヴァ初号機、予想地点に到達、停止しました。ATフィールド展開」

 その時。

 ゴォォォン!

 と計器が共鳴した。

「どうしたの?!」

「初号機のATフィールド、計測限界を超えました」

「え?」

『ミサト!』

 弐号機から通信が入る。

『な、なによ、これぇ!』

 赤木リツコの顔色が変わる。同時に伊吹マヤが叫んだ。

「に、弐号機、初号機のATフィールドにはばまれて前進できません!」

「なんですって?」

『中和できないのよ。動けない!』

「零号機は!? レイ?」

 零号機も同じく、初号機のATフィールド境界上で立ち往生していた。

 常に冷静な綾波レイの顔が蒼白に震えているのがモニタからも分かった。

「使徒は!?」

「初号機のATフィールド直上。落下、停止しています」

「初号機の様子は?」

「だめです、全ての光波、電磁波、粒子も遮断されています。モニタできません!」

『どうなってんのよぅ!』

 惣流アスカの絶叫が響いた。

『……碇くん』

 綾波レイは、作戦前の碇シンジの言葉を思い出していた。

 ATフィールドは誰もが持つ心の壁。

 その本質を知る彼女にとって。

 中和すらもできない絶対拒絶空間の展開は。

 碇シンジが自分をすら受け入れないことを意味していた。

 ……なぜ?

 燃えさかるようなATフィールドの壁を見つめたまま、綾波レイは唇をかみしめた。

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