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第2話「リツコの憂鬱」

 遅い。

 赤木リツコはいらつきを隠せない。

 唐突な使徒襲来。全ての予定が狂っていた。

『パイロットはサードチルドレンで初号機起動準備』

 碇ゲンドウの唐突な命令があっさり技術部を混乱に陥れた。

 サードチルドレンの到着は予定されていたとはいえ。

 せめてもう1週間の余裕があれば。

 せめてフィードバックの微調整だけでも。

 繰り言は多いが、どうしようもなかった。

 とにかく本人がいない。

 サードチルドレンがネルフ本部に到着したという連絡は入っている。予定の応接室ではなく、直接ケージに案内せよとの命令も伝えたはずだ。

 なのにやってこない。

「なにをやってるのかしら、ミサトは」

 ちらと巨大な紫の鬼を見上げ。手近のインターカムに問いかける。

「マヤ?」

『はい』

「葛城一尉とサードチルドレンの居場所は?」

『……26号エスカレータを下降中です』

 ケージに向かう通路ではない。

「どこへ?」

『……迷ってらっしゃるようです』

 はぁ、とため息ひとつ。あの方向音痴が。

 時間も人も足りないというのに。

「保安部に言って誰かを迎えにやってちょうだい」

『は、はい! 先輩』

 怒気をはらんだ声におびえたのか、インターカムからの声も震えていた。



 そして碇シンジは汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン初号機と対峙した。

 その横で、いらいらと声を荒げて非難する妖艶な科学者と冷や汗まじりに言い訳する艶麗な軍人のやりとりもまるで耳に入らないように。

 じっと紫の鬼面を睨み付けていた。

 少年にとっても人類にとっても、すべての始まりでありすべての終わりであるモノ。

 それがエヴァンゲリオンだった。

 あの時はただ怖かったんだ。父さんも。リツコさんも。ミサトさんも。使徒も。エヴァも。

 何から逃げ出すのか、どこへ逃げ出すのか、それさえも分からないままそれでもただ逃げたかったんだ。

 今は。

 今でも逃げたいのは同じかもしれない。

 逃げようとしているのかもしれない。

 でも、何から逃げ出すのか、どこへ逃げ出すのか。それは知ってる。

「久しぶりだな、シンジ」

 少年の頭上から声が落ちた。

 鬼面のさらに上。硬化ガラスの向こうに冷たい表情の男の姿。碇ゲンドウ。

「父さん……」

 少年は視線を移した。

 ……今なら分かる。父さんも逃げ出したかっただけなんだと。

 ただ、その逃げ場所は今の世界にはなかった。

 だから。逃げ場所を作りあげるために必死だったんだ、父さんは。

 それがあの時の情けないだけだった僕と限りなく強く見えた父さんとの違い。

 あの時は父さんの目を見ることは出来なかった。

 けれど。

 今は僕も逃げるべき場所がこの世界にないことを知っている……。

「うん……久しぶりだね、父さん」

 少年の答えは、それゆえに静かだった。

「使徒を見たか?」

「うん」

「使徒を倒すことが我々の使命だ。おまえが……」

 サングラスに隠されているはずの瞳が、それでも鋭く光ったような気がした。

「エヴァンゲリオンに乗り、戦え」

 必要最小限の命令を出すだけの男を、赤木リツコが補足した。

「エヴァンゲリオンは使徒に勝つための兵器。起動さえすれば勝てるわ。でも、予定のパイロットが事故で入院してしまっているのよ」

 さらに葛城ミサトが。

「ごめんなさい、シンジくん。説明もなしにあなたにお願いするはずじゃなかったんだけど……」

「座っていればいい。それ以上は望まん」

 最後に碇ゲンドウが総括した。

 少年は、ちらりと赤木リツコを、葛城ミサトを、そして父親に視線を戻す。

 勝手だよね、みんな。

 父さんも、リツコさんも、ミサトさんも、それぞれが自分の逃げ場所を作るために生きている。

 それが結果として人類のためになるんだとしても。

 考えているのは結局は自分のことだけだ。

 だからぼくも。ぼくのための逃げ場所を作るよ。

「分かったよ、父さん。僕が……乗ります」



 この5日前。

 葛城ミサトは赤木リツコのネルフ本部内の研究室で再会を祝った。供されたのは1杯のコーヒーだけだったが。

「久しぶりね、ミサト」

「リツコも元気そうじゃない。……で?」

「うん? なにを聞きたいの?」

「どうしてあたしが、こんなに急にドイツ支部から召還されたわけ?」

「エヴァ零号機の起動実験。トラブったのよ」

「それは聞いてる。でも?」

「パイロット綾波レイは重傷。しばらくは動けないわ」

「なに? 私に乗れっていうわけ?」

「まさか」

 吹き出した。

「あなたじゃ起動しないわよ」

「じゃあ?」

「パイロットは予備を……サードチルドレンを召集するわ」

「サード? いたの?」

「ええ。でもファーストやセカンドとは違う。何の訓練も受けていないわ」

「はぁ、それで私が訓練教官ってわけ?」

「それもあるわ」

「それも?」

「あなた辞令、もらってないの?」

「ドイツ支部でもらったのは本部への無期限出向ってだけよ」

 本部だ支部だといっても、実質は別組織に近い。本部の経費は基本的に日本国の予算で賄われているし、ドイツ支部の経費は独国の国家予算から出ている。

 名目として、国連からの多額の援助金がおろされているが、国連予算は結局、各独立国家の税金だ。

 本部、支部間の反目も多い。

 本部は葛城ミサトの所属を移したつもりであっても、ドイツ支部としては出向という形に固守したのだろう。

 赤木リツコは肩をすくめ、今日明日中に副司令から辞令が降りるだろうがと前置きして、言葉を続けた。

「あなたは、ネルフ本部のE計画作戦担当なのよ。作戦部部長って肩書きかしら?」

 その説明に、葛城ミサトはしばし黙考した。

 肝心の点があやふやだった。

「ファーストチルドレン……綾波レイの怪我は? 重いの?」

「全治1ヶ月ってところかしら」

 話が合わない。

 訓練も受けない素人同然、いや素人そのもののサードチルドレンの召集、ドイツ支部に所属するはずの葛城ミサトの急な召還。

 たかが1ヶ月程度のブランクのために?

「使徒……、また使徒が現れるってわけなの?!」

 その質問には返事はなかった。

 赤木リツコは黙ってコーヒーを飲み干した。

 大学時代の友人のこの鋭い洞察力こそが、ドイツ支部があくまで出向であると主張し、本部が作戦担当として抜擢したその理由であると、内心では舌をまきながら。

「機体はあるの? 零号機は破損してるって聞いてるわよ」

「初号機があるわ」

「初号機って……動くの?」

「公式な試算による起動確率は10のマイナス9乗だけどね」

 こともなげな友人の回答に顔をしかめる。

「それって……動かないってんじゃないの?」

「あら、失礼ね。ゼロではなくってよ」

「言葉のアヤで戦闘指揮なんてできないわよ」

「大丈夫よ、理論上は……サードなら起動するはずよ」

「素人でしょ?」

「使徒に勝つためのエヴァンゲリオン。起動さえすれば道はあるわ。基本操作は1週間もあれば習得できるシステムだしね」

「ふん」

 葛城ミサトはその言葉を、自分の戦闘指揮能力への期待だと受け取った。

「ま、いずれにせよ、動きませんでした、じゃあすまないか。……で、その期待のサードチルドレンってどんな子?」

 机の上の端末キーボードに走る指。モニタに写真が呼び出される。

「あっら〜。なかなか可愛い子じゃない」

「今週中にはここに来てもらうわ」

「あたしの指揮下に入るわけよね、よしっ、じゃ、あたしが迎えに行くわ!」

 なにを張り切ってるんだか、と赤木リツコはうろんげに眉をひそめる。

「いいわよ、私が呼び出すつもりだったんだから……あなたに任せるわ」

「でも、ちょっと頼りなさそうねえ。かっわいいからいいけど」

「……碇総司令のご子息よ」

 げ、と。葛城ミサトは硬直した。

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