第18話「住処」
キーボードを華麗に舞う白い指に、ふいに無骨な男の手が重ねられた。
背後から抱きかかえられるような気配。
……まさか?
「よっ、リッちゃん。相変わらず仕事の虫かい?」
「加持くん?」
一瞬、胸の高まりを覚えた赤木リツコだったが、掛けられた声に波がひくような脱力と自嘲を感じる。
……そうよね、あの人がこんなことするはずないものね。
わたしもバカね、と苦笑を浮かべて振り向く。
「お久しぶり。本部配属ですって?」
それには答えず加持リョウジ、触れ合っている旧友の身体の強ばりと弛緩を敏感に読みとった。女慣れしている。
「ふぅん。……恋、してるのか?」
「さぁ、どうかしら?」
さすがにひっかかるような小娘ではない。
軽くいなされて、話題を変えた。
「なんのデータだい? エヴァか?」
「極秘よ……。加持くん、セキュリティレベル、高そうだけど」
……おっと、リッちゃんも勘づいてるのか。まいったな。
裏の意味を読みとって肩をすくめる。
「まぁ、な」
「シンクロ率解析よ。セカンドチルドレンと弐号機の」
「ふうん?」
「エヴァ。一筋縄ではいかないシステムよ。私の予想を越えることも多くて。苦労するわ」
「リッちゃんでも根をあげるかぃ?」
「全てが分かっているわけじゃないわよ」
「使徒にエヴァ、か。サードチルドレン、碇シンジくんのほうはどうなんだ?」
「質問責めね」
はは、と笑って身体を離した。
「シンジくんは……いい子よ。ミサトが気に入ってるわ」
「ほう、葛城が……」
「未練、あるんじゃないの?」
「おいおい」
苦笑した。
「昔からリッちゃんには敵わないな」
「ひとり、なんでしょ? 取られちゃうわよ」
「中学生にかい?」
「馬鹿にしたもんじゃないわよ、シンジくん」
言葉の調子の微妙さに、ふとひっかかる。
「サードチルドレン、としてか? なにかあるのか?」
答えは返ってこない。
……碇、シンジくんか。一度ゆっくり話してみるかな。
黙考に入りかけたところを。
「加持!」
「よっ、葛城」
「あんた何やってんのよ。早くドイツに帰んなさい!」
「本部付きになった。これからまた3人でつるめるな」
「マジ? あちゃあ」
「あら、うれしそうね?」
「リツコ!」
「まァまァ。お茶でも飲みにいこうや。リッちゃんも息抜きしなよ」
「そうね」
「ったく!」
だが、本部内に鳴り響いた警戒警報が三人の目的地を変えた。
第七使徒の襲来。
人類と使徒の戦い第5戦目にして、ようやくネルフ側の意向が通り、国連軍は早期に作戦指揮権を委譲してきた。
第六使徒戦での太平洋艦隊の壊滅的被害が影響していたこともあろう。
また第五使徒による損害も軽からぬ武装要塞都市の完工が遅れに遅れ、これ以上の都市戦による予定外の被害と建設費用の増大が日本政府に厭われたこともある。
戦場は第三新東京市ではなく、海岸線上に移された。
市外戦用のエヴァ電源装置トレーラーが投入され、市外での電力供給が可能になったエヴァンゲリオン初号機及び弐号機が、専用長距離輸送機によって想定戦域に空輸される。
残念ながら、零号機はまだ機体装甲の換装作業中であった。
「どうして?」
二体に分裂した使徒の片割れをプログナイフで捌きながら、碇シンジは悩んでいた。
エヴァ弐号機をちらりと見やる。
深紅の機体も、もう片方の使徒を相手に致命傷を与えられず、押され気味に見える。
「これじゃあ『以前』と同じじゃないか」
アスカは分裂することを知っているはずなのに。
碇シンジは、使徒が分裂する前に一気にケリをつけるつもりでいた。
第三使徒の時と同じく、コアへの強襲完全打撃。
「シンジ。あたしが行くからね。あんたは援護してなさい!」
しかし惣流アスカのその言葉に、譲ったのだ。
アスカも時を遡航している。
使徒をまっぷたつに分断する攻撃では殲滅できないことを知っているから、大丈夫だろうと。
分裂さえさせなければ、今のアスカなら危険な敵ではないはず。
ところが。
惣流アスカは、『以前』と全く同じ手段をとった。
二体に分離した使徒。
分断後も弐号機にまるで油断が見られなかったことから、惣流アスカが予想していたことは分かったが……。
じゃあ、なぜ?
『シンジくん、アスカ?』
碇シンジの通信で、分裂した使徒の不死性に気づいた葛城ミサトから返事が入る。
『戦自にN2爆雷を要請したわ。ギリギリまで粘って、使徒のATフィールドを中和していてちょうだい。
カウントダウンするから、ゼロになったらATフィールド最大で一気に離脱。いいわね?』
「わかりました」
『はやくしてよ、ミサト』
ATフィールドを中和され防御力の弱まった使徒に落とされた国連軍の最終兵器N2爆雷。
それでも使徒殲滅が叶わないことが戦自首脳に忸怩たる思いを抱かせたのだが、足止めには成功。
ただ、ATフィールドを中和していたエヴァ両機にもN2爆雷による軽微な被害があり、こちらも装甲の一部換装が必要になった。
人類と使徒の間に約1週間の膠着状態が生まれた。
……惣流アスカの計算通りに。
「って、わけでぇ」
パンパンと掌を打ち合わせ、大量の荷物を葛城邸に運び込み終わった惣流アスカ。
にへらっとほくそ笑む。
「シンジとユニゾン訓練ができる……じゃない、シンジを家政夫に使えるのよね」
惣流アスカも最後まで悩んでいた。
第七使徒といかに戦うべきか。
碇シンジに任せる気はなかった。
もはや自分のシンクロ率の足下にも及ばない少年を助けてやるためにやってきたのだから、この日本に。
といって、『以前』の反省からうまく使徒を処理してしまったのでは、葛城ミサトのマンションで同居するきっかけがなくなってしまう。
「ま、ミサトの作戦はありがたかったわよね」
空母オーバー・ザ・レインボーでの第六使徒との戦い、ATフィールドに包まれたプログナイフでの一撃必殺。
その印象が強かったのか、葛城ミサト作戦部長は、エヴァンゲリオン専用長槍を使った使徒裂断攻撃を指示してきた。
これ幸いと便乗したのである。
「叩っ切ったあとでも油断しなきゃ、『以前』みたいにみっともないことにはなんないでしょうしね」
適当にあしらったあと、N2爆雷を使ってもらえばいい。
もっとも先に碇シンジが作戦変更を進言したが。
「すーぐ弱音吐いちゃって。なっさけないやつぅ」
……ま、あのままじゃさすがのあたしでもヤバかったけどね。
「さって、あいつの部屋の荷物を放り出しますか」
シンジたちが帰ってくる前に。勝手知ったる葛城邸である。
「あれ?」
これから自分の部屋になるはずの、今は碇シンジの部屋に足音高く踏み込んだが。
「ブラジャー? あ、ああ、あのスケベ、ミサトの下着を……」
あたしをオカズにしてんのは知ってたけどね。
まっさか、ミサトなんて婆ァなんかで……。
いくら人生を実年齢より1年ばかり長く生きているといっても、男の生理を笑って流せる年頃ではなかった。
ぐぐっとわき上がる羞恥と怒りが、発見した下着を握りしめる拳を震わせる。
「ただいま。うぁ、この荷物……」
「ばかシンジ!」
パン! パン!
「痛っ。ア、アスカ。なにすんだよ?」
「あんたねぇ! よりによってミサトの!」
「ミサトさんが?」
「問答無用!」
「……あたしのよ」
「ファースト?」
パシッと手にしていたブラジャーを奪い取られた。
「ってことは……シンジ! あんたファーストのブラジャーをオカズに!」
「何いってんだよ」
さすがに真っ赤になっている碇シンジ。
「あんたの部屋にあったのよ!」
「ぼくの部屋って……。あ、そこ、綾波の部屋だよ?」
「あ」
ようやく勘違いに気づいた惣流アスカであった。
気づいたものの、こうなれば怒り続けるしかない。
「なんであたしの部屋にファーストが住んでるのよ!」
「アスカの部屋って……」
「……この部屋はわたしの」
「なんですって!」
「ちょ、ちょっとケンカしないでよ」
「あらぁ、アスカ、もう荷物入れちゃったの?」
「ミサトさん……」
「ごみんごみん、シンちゃんたちにはまだ言ってなかったのよね。今日から、アスカも一緒に暮らしてもらうから」
「そういうことよ! だからファーストの部屋はないの!」
「なんで?」
「どうして?」
「かぁー! 声、あわしてんじゃない!」
「ちょっとアスカ? みんな一緒に住むのよ?」
「みんなって、ファーストも?」
「そうよん。追い出すわけないじゃない」
「ミサトさん。部屋、どうするんですか?」
「レイとアスカは一緒の部屋でいいじゃなぁい」
「なっ! いやよ!」
「あら。じゃあシンちゃんと一緒の部屋に住みたいわけ?」
「バ、バカいってんじゃないわよっ」
「だってアスカ、シンちゃんを追い出すって言わないじゃない」
「そ、それはシンジとは訓練しなきゃならないってミサトがいうから……」
「うふふぅ。赤くなっちゃって」
「ミサト!」
「はいはい。とにかく作戦の説明するから。シンちゃん、ご飯にしてもらえる?」
「はい、いいですけど……」
惣流アスカを無表情に見つめる綾波レイが気になった。
蝉時雨が夕焼けのアスファルトを撫でる。
ほとんど人通りのない都市外れの舗道を綾波レイはひとり緩慢に歩んでいた。
ひとあしごとが重い。
そんな気がした。
右手の薄い通学鞄にさえ振られるように脚を出す。
……帰るのが、重いのね。
碇シンジと惣流アスカのユニゾン訓練は順調に進んでいる。
それは碇シンジにとってはかなり意外だったようだ。
一度はほぼ完璧な同期を果たせた二人だったものの、その後は決してその関係を持続できたとは言い難い。
惣流アスカがどこまでの記憶を持っているのかは定かではなかったが、碇シンジを受け入れてくれるとは考えられなかったのだろう。
しかし、その危惧はあっさりはずされていた。
葛城ミサトの指示による生活サイクルの同調に始まり、作戦の要となるダンス訓練。
渚カヲルの力を得てさえ運動神経的にはあまり向上が見られない碇シンジに、惣流アスカはよく合わせていた。
「この調子なら、心配ないわね」
にこにこという葛城ミサトに、まんざらでもなさそうに照れる碇シンジと惣流アスカ。
その中で居場所を見失ってしまったのが綾波レイだった。
登校を禁じられ、24時間、マンションでの生活を強いられているのは二人であって、綾波レイには関係がない。
碇シンジのいない学校。
碇シンジのいない本部。
極端に共有する時間が減っていた、綾波レイにとって。
……碇くんは、やさしい。
少年はいつも綾波レイにやさしかった。
守る、と少年は言った。
常に気遣いを感じた。
だけれども。
惣流アスカの毒舌に、口を尖らせながらも笑う少年。
その姿は、とてもとても楽しそうだ、と。
綾波レイは思った。
……わたしには。
自分といる時に、少年があれほど楽しそうにしたことがあっただろうか。
……楽しい、ってなに?
綾波レイには惣流アスカのように振る舞うことなど出来ない。
いつも静かに佇むだけだ。
甘える、ということは覚えかけていた。
けれど、限度を超えて踏み込めない。どこかで無意識の歯止めがかかってしまう。
惣流アスカはごく自然にその歯止めを消せるのだろうか。
少なくとも、惣流アスカとの再会に不安をこぼした碇シンジの姿はなかった。
……よく、わからない。
楽しいということ、やさしいということの違いが。
ただ。
自分は碇シンジに守ってもらうことしかできないのではないかと。
それは碇シンジにとって重荷でしかないのではないかと。
葛城ミサトのマンションにたどり着くまで、延々と出口の見つからない思考は空回りを続けていた。
「……ただいま」
いつものようにつぶやくようにドアを開ける。
リビングからにぎやかな声が聞こえる。
「あ、だめだよ、まだ」
「なによ、ケチ。お腹、減ってんだから、さ」
「太るよ?」
「バッカ。レディになんてこと言ってんのよ!」
「あぅ、痛いって」
「ね、それ美味しそうじゃない」
「うん、初めて試してみたんだけど」
「あーん」
「あーん、って」
「はやく」
「もう」
「……ん。もぐ」
「どっかな?」
「いけるわよ、うん」
「……ありがとう」
別になんということもない光景なのだろうが。
陰鬱な思索に囚われていた不器用な少女は、そこに踏み込めなかった。
「碇くん……」
綾波レイは、マンションのドアを閉ざし、歩みを夕暮れに向けるしかなかった。
旧市街、朽ち崩れたマンモス団地の。
塵埃にまみれた402号室。
やはりそこが自分の部屋なのだと、思った。
背後から抱きかかえられるような気配。
……まさか?
「よっ、リッちゃん。相変わらず仕事の虫かい?」
「加持くん?」
一瞬、胸の高まりを覚えた赤木リツコだったが、掛けられた声に波がひくような脱力と自嘲を感じる。
……そうよね、あの人がこんなことするはずないものね。
わたしもバカね、と苦笑を浮かべて振り向く。
「お久しぶり。本部配属ですって?」
それには答えず加持リョウジ、触れ合っている旧友の身体の強ばりと弛緩を敏感に読みとった。女慣れしている。
「ふぅん。……恋、してるのか?」
「さぁ、どうかしら?」
さすがにひっかかるような小娘ではない。
軽くいなされて、話題を変えた。
「なんのデータだい? エヴァか?」
「極秘よ……。加持くん、セキュリティレベル、高そうだけど」
……おっと、リッちゃんも勘づいてるのか。まいったな。
裏の意味を読みとって肩をすくめる。
「まぁ、な」
「シンクロ率解析よ。セカンドチルドレンと弐号機の」
「ふうん?」
「エヴァ。一筋縄ではいかないシステムよ。私の予想を越えることも多くて。苦労するわ」
「リッちゃんでも根をあげるかぃ?」
「全てが分かっているわけじゃないわよ」
「使徒にエヴァ、か。サードチルドレン、碇シンジくんのほうはどうなんだ?」
「質問責めね」
はは、と笑って身体を離した。
「シンジくんは……いい子よ。ミサトが気に入ってるわ」
「ほう、葛城が……」
「未練、あるんじゃないの?」
「おいおい」
苦笑した。
「昔からリッちゃんには敵わないな」
「ひとり、なんでしょ? 取られちゃうわよ」
「中学生にかい?」
「馬鹿にしたもんじゃないわよ、シンジくん」
言葉の調子の微妙さに、ふとひっかかる。
「サードチルドレン、としてか? なにかあるのか?」
答えは返ってこない。
……碇、シンジくんか。一度ゆっくり話してみるかな。
黙考に入りかけたところを。
「加持!」
「よっ、葛城」
「あんた何やってんのよ。早くドイツに帰んなさい!」
「本部付きになった。これからまた3人でつるめるな」
「マジ? あちゃあ」
「あら、うれしそうね?」
「リツコ!」
「まァまァ。お茶でも飲みにいこうや。リッちゃんも息抜きしなよ」
「そうね」
「ったく!」
だが、本部内に鳴り響いた警戒警報が三人の目的地を変えた。
第七使徒の襲来。
人類と使徒の戦い第5戦目にして、ようやくネルフ側の意向が通り、国連軍は早期に作戦指揮権を委譲してきた。
第六使徒戦での太平洋艦隊の壊滅的被害が影響していたこともあろう。
また第五使徒による損害も軽からぬ武装要塞都市の完工が遅れに遅れ、これ以上の都市戦による予定外の被害と建設費用の増大が日本政府に厭われたこともある。
戦場は第三新東京市ではなく、海岸線上に移された。
市外戦用のエヴァ電源装置トレーラーが投入され、市外での電力供給が可能になったエヴァンゲリオン初号機及び弐号機が、専用長距離輸送機によって想定戦域に空輸される。
残念ながら、零号機はまだ機体装甲の換装作業中であった。
「どうして?」
二体に分裂した使徒の片割れをプログナイフで捌きながら、碇シンジは悩んでいた。
エヴァ弐号機をちらりと見やる。
深紅の機体も、もう片方の使徒を相手に致命傷を与えられず、押され気味に見える。
「これじゃあ『以前』と同じじゃないか」
アスカは分裂することを知っているはずなのに。
碇シンジは、使徒が分裂する前に一気にケリをつけるつもりでいた。
第三使徒の時と同じく、コアへの強襲完全打撃。
「シンジ。あたしが行くからね。あんたは援護してなさい!」
しかし惣流アスカのその言葉に、譲ったのだ。
アスカも時を遡航している。
使徒をまっぷたつに分断する攻撃では殲滅できないことを知っているから、大丈夫だろうと。
分裂さえさせなければ、今のアスカなら危険な敵ではないはず。
ところが。
惣流アスカは、『以前』と全く同じ手段をとった。
二体に分離した使徒。
分断後も弐号機にまるで油断が見られなかったことから、惣流アスカが予想していたことは分かったが……。
じゃあ、なぜ?
『シンジくん、アスカ?』
碇シンジの通信で、分裂した使徒の不死性に気づいた葛城ミサトから返事が入る。
『戦自にN2爆雷を要請したわ。ギリギリまで粘って、使徒のATフィールドを中和していてちょうだい。
カウントダウンするから、ゼロになったらATフィールド最大で一気に離脱。いいわね?』
「わかりました」
『はやくしてよ、ミサト』
ATフィールドを中和され防御力の弱まった使徒に落とされた国連軍の最終兵器N2爆雷。
それでも使徒殲滅が叶わないことが戦自首脳に忸怩たる思いを抱かせたのだが、足止めには成功。
ただ、ATフィールドを中和していたエヴァ両機にもN2爆雷による軽微な被害があり、こちらも装甲の一部換装が必要になった。
人類と使徒の間に約1週間の膠着状態が生まれた。
……惣流アスカの計算通りに。
「って、わけでぇ」
パンパンと掌を打ち合わせ、大量の荷物を葛城邸に運び込み終わった惣流アスカ。
にへらっとほくそ笑む。
「シンジとユニゾン訓練ができる……じゃない、シンジを家政夫に使えるのよね」
惣流アスカも最後まで悩んでいた。
第七使徒といかに戦うべきか。
碇シンジに任せる気はなかった。
もはや自分のシンクロ率の足下にも及ばない少年を助けてやるためにやってきたのだから、この日本に。
といって、『以前』の反省からうまく使徒を処理してしまったのでは、葛城ミサトのマンションで同居するきっかけがなくなってしまう。
「ま、ミサトの作戦はありがたかったわよね」
空母オーバー・ザ・レインボーでの第六使徒との戦い、ATフィールドに包まれたプログナイフでの一撃必殺。
その印象が強かったのか、葛城ミサト作戦部長は、エヴァンゲリオン専用長槍を使った使徒裂断攻撃を指示してきた。
これ幸いと便乗したのである。
「叩っ切ったあとでも油断しなきゃ、『以前』みたいにみっともないことにはなんないでしょうしね」
適当にあしらったあと、N2爆雷を使ってもらえばいい。
もっとも先に碇シンジが作戦変更を進言したが。
「すーぐ弱音吐いちゃって。なっさけないやつぅ」
……ま、あのままじゃさすがのあたしでもヤバかったけどね。
「さって、あいつの部屋の荷物を放り出しますか」
シンジたちが帰ってくる前に。勝手知ったる葛城邸である。
「あれ?」
これから自分の部屋になるはずの、今は碇シンジの部屋に足音高く踏み込んだが。
「ブラジャー? あ、ああ、あのスケベ、ミサトの下着を……」
あたしをオカズにしてんのは知ってたけどね。
まっさか、ミサトなんて婆ァなんかで……。
いくら人生を実年齢より1年ばかり長く生きているといっても、男の生理を笑って流せる年頃ではなかった。
ぐぐっとわき上がる羞恥と怒りが、発見した下着を握りしめる拳を震わせる。
「ただいま。うぁ、この荷物……」
「ばかシンジ!」
パン! パン!
「痛っ。ア、アスカ。なにすんだよ?」
「あんたねぇ! よりによってミサトの!」
「ミサトさんが?」
「問答無用!」
「……あたしのよ」
「ファースト?」
パシッと手にしていたブラジャーを奪い取られた。
「ってことは……シンジ! あんたファーストのブラジャーをオカズに!」
「何いってんだよ」
さすがに真っ赤になっている碇シンジ。
「あんたの部屋にあったのよ!」
「ぼくの部屋って……。あ、そこ、綾波の部屋だよ?」
「あ」
ようやく勘違いに気づいた惣流アスカであった。
気づいたものの、こうなれば怒り続けるしかない。
「なんであたしの部屋にファーストが住んでるのよ!」
「アスカの部屋って……」
「……この部屋はわたしの」
「なんですって!」
「ちょ、ちょっとケンカしないでよ」
「あらぁ、アスカ、もう荷物入れちゃったの?」
「ミサトさん……」
「ごみんごみん、シンちゃんたちにはまだ言ってなかったのよね。今日から、アスカも一緒に暮らしてもらうから」
「そういうことよ! だからファーストの部屋はないの!」
「なんで?」
「どうして?」
「かぁー! 声、あわしてんじゃない!」
「ちょっとアスカ? みんな一緒に住むのよ?」
「みんなって、ファーストも?」
「そうよん。追い出すわけないじゃない」
「ミサトさん。部屋、どうするんですか?」
「レイとアスカは一緒の部屋でいいじゃなぁい」
「なっ! いやよ!」
「あら。じゃあシンちゃんと一緒の部屋に住みたいわけ?」
「バ、バカいってんじゃないわよっ」
「だってアスカ、シンちゃんを追い出すって言わないじゃない」
「そ、それはシンジとは訓練しなきゃならないってミサトがいうから……」
「うふふぅ。赤くなっちゃって」
「ミサト!」
「はいはい。とにかく作戦の説明するから。シンちゃん、ご飯にしてもらえる?」
「はい、いいですけど……」
惣流アスカを無表情に見つめる綾波レイが気になった。
蝉時雨が夕焼けのアスファルトを撫でる。
ほとんど人通りのない都市外れの舗道を綾波レイはひとり緩慢に歩んでいた。
ひとあしごとが重い。
そんな気がした。
右手の薄い通学鞄にさえ振られるように脚を出す。
……帰るのが、重いのね。
碇シンジと惣流アスカのユニゾン訓練は順調に進んでいる。
それは碇シンジにとってはかなり意外だったようだ。
一度はほぼ完璧な同期を果たせた二人だったものの、その後は決してその関係を持続できたとは言い難い。
惣流アスカがどこまでの記憶を持っているのかは定かではなかったが、碇シンジを受け入れてくれるとは考えられなかったのだろう。
しかし、その危惧はあっさりはずされていた。
葛城ミサトの指示による生活サイクルの同調に始まり、作戦の要となるダンス訓練。
渚カヲルの力を得てさえ運動神経的にはあまり向上が見られない碇シンジに、惣流アスカはよく合わせていた。
「この調子なら、心配ないわね」
にこにこという葛城ミサトに、まんざらでもなさそうに照れる碇シンジと惣流アスカ。
その中で居場所を見失ってしまったのが綾波レイだった。
登校を禁じられ、24時間、マンションでの生活を強いられているのは二人であって、綾波レイには関係がない。
碇シンジのいない学校。
碇シンジのいない本部。
極端に共有する時間が減っていた、綾波レイにとって。
……碇くんは、やさしい。
少年はいつも綾波レイにやさしかった。
守る、と少年は言った。
常に気遣いを感じた。
だけれども。
惣流アスカの毒舌に、口を尖らせながらも笑う少年。
その姿は、とてもとても楽しそうだ、と。
綾波レイは思った。
……わたしには。
自分といる時に、少年があれほど楽しそうにしたことがあっただろうか。
……楽しい、ってなに?
綾波レイには惣流アスカのように振る舞うことなど出来ない。
いつも静かに佇むだけだ。
甘える、ということは覚えかけていた。
けれど、限度を超えて踏み込めない。どこかで無意識の歯止めがかかってしまう。
惣流アスカはごく自然にその歯止めを消せるのだろうか。
少なくとも、惣流アスカとの再会に不安をこぼした碇シンジの姿はなかった。
……よく、わからない。
楽しいということ、やさしいということの違いが。
ただ。
自分は碇シンジに守ってもらうことしかできないのではないかと。
それは碇シンジにとって重荷でしかないのではないかと。
葛城ミサトのマンションにたどり着くまで、延々と出口の見つからない思考は空回りを続けていた。
「……ただいま」
いつものようにつぶやくようにドアを開ける。
リビングからにぎやかな声が聞こえる。
「あ、だめだよ、まだ」
「なによ、ケチ。お腹、減ってんだから、さ」
「太るよ?」
「バッカ。レディになんてこと言ってんのよ!」
「あぅ、痛いって」
「ね、それ美味しそうじゃない」
「うん、初めて試してみたんだけど」
「あーん」
「あーん、って」
「はやく」
「もう」
「……ん。もぐ」
「どっかな?」
「いけるわよ、うん」
「……ありがとう」
別になんということもない光景なのだろうが。
陰鬱な思索に囚われていた不器用な少女は、そこに踏み込めなかった。
「碇くん……」
綾波レイは、マンションのドアを閉ざし、歩みを夕暮れに向けるしかなかった。
旧市街、朽ち崩れたマンモス団地の。
塵埃にまみれた402号室。
やはりそこが自分の部屋なのだと、思った。