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第15話「アスカ来日:Aパート」

 静かに夜が更けていった。

 喧しい蝉の声も絶えている。

 蒼く冷たい月光がカーテン越しに染み出し、時間を沈殿させていく。

 その溜まりの中に、紅い瞳がふたつ、埋ずもれた宝玉のように黙座していた。

「……眠れない」

 吐息がたゆとうた。

 どうして……?

 胸の奥につかめないしこりがある。

 だが、晦(くら)まされることに慣れた感情は、いっこうに浮揚しようとはせず、少女自身にもかたちをもってつかみ得なかった。

 不安、なのだろうか?

 そうかもしれない……。

 違うような気もする……。

 観想を重ねても浮き上がるそばから泡と消える。

 怖い?

 そう、怖いのね、きっと……。

 だが、なにが?

 その答えはいくらココロに問いかけても返ってこない。

「碇……くん」

 囁いてみる。

 ほんの少し、軽くなったような気がした。

 あるいは。

 逆に、重くなったような気もした。

 向かうべきところが定まらなかった。

 ふぅ、と。

 淡い桜色の唇をつぼめて、細く息を伸ばした後、綾波レイは立ち上がった。



 カチャリと音をたてて、碇シンジの部屋のドアが開かれた。

 そっと中を覗き込む。

 少年は横向きに丸くなって眠っていた。

 綾波レイは静かにそばに寄り、その枕元に座り込む。

 折り曲げた膝を両手で抱え、じっと少年の寝顔を見つめる。

 静かな寝息が耳をくすぐった。

 人差し指を伸ばす。

 ゆっくりとゆっくりと、少年の頬に近づけていく。

 ぷに。

 触れ合ったとき、そんな音の感触が指先をふるわせた。

 ぷにぷに。

 繰り返してみた。

 ぷにぷにぷに。

 やめられなくなった。

 ぷにぷにぷに。

「……う、ん……」

 突然、少年が寝返りをうった。

 思わず頬を染めて、横を向いてしまう。

 指先が空で停まり、瞳が忙しなく揺れ動く。

 幸い、かどうか、少年は目覚めなかった。

 また、静かな寝息。

 ためらったが、もう一度だけ。

 ぷにぷに。

 ……ばかなことをしているのね、わたし。

 ぷに。

 胸のしこりが消えたわけではなかったが。

 眠れそうな気がして、綾波レイは枕辺を離れた。

 ……ときどき、つつかせてもらおう。

 碇くんはきっと許してくれるから……

 おかしな遊びを覚えてしまった綾波レイであった。



 パチリ。

 柘植の駒が本榧の盤の上で鮮烈な音を響かせる。

 匠にのみ許された吸い付くような直線。もはや新たな生産は望めない。

 材木資源とともに老匠の命さえも奪ったセカンドインパクト。

 冬月コウゾウの愛するこの将棋盤は、ある意味、本部施設を埋め尽くす電子機器以上の貴重品である。

 パチリ。

 ……2二飛成、同玉、1一角……む、ではこの と金はダミーではないか。

 パチリ。

 2三角成……ふっ、詰んだな。

 部屋の中央、相変わらず渋い表情で電話をしている髭面の男の笑いを真似て、悦にいってみる。

 カチャリ。

 碇ゲンドウが受話器を置いた。

 口元に組んだ拳を当て、ややうつむき加減に沈思している。

 おや、珍しい。

 ……ふむ、怒っているようだな。

 あるいはネルフでただ一人、碇ゲンドウの顔色を読める男、冬月コウゾウである。

 まあ、なにもかもが思い通りにいくとは限るまい。

 だが碇ゲンドウの動きは他人事ではない。

 同じ道を歩む者として。

「冬月」

「どうしたね?」

「弐号機は2日後には新横須賀に到着する」

「ふむ?」

「護衛として国連軍太平洋艦隊がついているそうだ」

「太平洋艦隊? 総出か?」

 少し話がおかしい。

 弐号機の輸送は輸送船と電源供給用の原子力空母が1隻もあればそれでよい。

 エヴァに対抗できる戦力など存在しない。

 虎の護衛に鼠をつけるような不自然さだ。

「ドイツ支部が電源ソケットをつけなかったようだ」

「ばかな?!」

 委員会の連中はともかくキール議長は今回の輸送作戦途中で使徒の襲来がありうることを分かっているはず。

 あるいは弐号機こそが護衛であるというのに。

 冬月も腰を抜かした。

「どういう折衝があったかは知らん。アメリカも示威運動に必死だからな」

 国連軍太平洋艦隊はそのままアメリカ海軍である。

 現在世界に残る海軍中では最大の規模を誇る。

 しかし疲弊したアメリカ社会は、前世紀のように武力を背景とした経済侵略を繰り返すだけの力を喪失していた。

 ネルフによる強権が、日本の技術力の先端をE計画に奪い取り、結果、日本からの略取によって際だっていたアメリカの兵器技術の凋落が著しい。

 経済の建て直しのためにも、軍事力を誇示する必要に迫られている。

 その事情にドイツ支部が乗った。

 太平洋艦隊の護衛があるのなら、海上でのエヴァの運用は必要あるまい、と。

 あまりにも浅薄なネルフ本部への遺恨。

 国連の正式機関でありながら特務組織として自己監察制度を持たないネルフ。その個人主義的な運営と、各在籍国家主権との癒着が、考えざるドイツ支部長の横暴を許した。

 エヴァ弐号機は艤装すら最低のB型装備の上、電源供給システムも持たない、文字通りのでくの坊として送り出されてしまっていた。

 先日の日本重化学工業共同体の件といい、つまらない雑事が多すぎる。

「どうするのかね?」

 碇ゲンドウの判断ははやかった。

「葛城一尉に電源ソケットを持たせて艦隊に向かわせる」

「葛城くんをかね?」

「初号機パイロットもつける」

「パイロットひとりでか? 初号機は?」

 愚問だった。

 使徒の来襲時期はある程度予想できた。

 が、弐号機に、あるいは弐号機が守るべきモノに使徒が接近するとは限らない。これまで通り、本部強襲の可能性も残っている。

 作戦指揮者葛城ミサトを弐号機側にまわす以上、本部の戦力はもう割けない。

 本来なら綾波レイを向かわせるのが筋だろうが……。

 それは碇ゲンドウの拘りなのか。

 あるいは、葛城ミサトという指揮官なしで碇シンジと初号機を扱うことを怖れていたのかも知れない。

「わかった」

 冬月コウゾウは納得した。

「しかし、葛城くんには使徒襲来の可能性を臭わせるわけにはいかんぞ」

「遊びがてら、ということにしておけばよい」

「通用するかね?」

「シンジのクラスメイトも一緒にいかせろ」

「ふむ。パイロット候補生か……」

「いずれ必要になる。弐号機を見学させておくのも悪くはあるまい」

 口元に歪んだ笑みを浮かべたときには、すでに問題に決着がついていた。



「Mil-55d 輸送ヘリに乗って! 目指すは国連軍太平洋艦隊正規空母オーバー・ザ・レインボー! ミサトさん、ありがとうございます、ありがとうございます!」

 操縦士の失笑を買いながらも、ハンディビデオカメラを片手に大はしゃぎの相田ケンスケ。

「この帽子、ミサトはんのために買うたんですぅ! わいらまで誘てもらえるやなんて!」

 軍艦にも航空機にも興味はないが、硬派を名乗るくせにまるきり軟派な鈴原トウジは葛城ミサトを横にほくほく顔。

 人選、誤ったからしら?

 と、少し引き気味の葛城ミサトは、どこか緊張した面もちでぼんやり海を見つめている碇シンジの様子が気になっていた。

 昨日。

「久しぶりにはあたしとデートしなぁい? 豪華なお船で太平洋をクルージングぅ」

 と声を掛けた時。

 いつもに似合わない怯えたような様子が垣間見えた。

 すぐに、はい、と笑って答えが返ってきたのだが。

 なんにも質問もなしに、はい、は変よね、考えてみると。

 まさか本気でデートだと思ったのかしら?

 綾波レイも横にいたのだ。

 いや、碇シンジの態度はさておき。

 副司令からの命令も変よね?

 彼女とは面識がある。パイロットは自分の管轄下に入る。

 パイロット同士の顔つなぎもかねて、迎えに行けというのは分からないでもないが。

 電源ソケットの輸送?

「まあ、遊びのような任務だからな。ヘリを飛ばす口実に、電源ソケットも積んでいってくれたまえ」

 って、そんなとってつけたような理由じゃ、このあたしは納得しないわよ?

 まあ、シンジくんの友達も連れていってやれば、ってんだから危険はないのかしら?

 はて。

 それも、腑に落ちないものを感じる。

 シンジくんは何か知ってる?

 ま、そりゃないか。あの父子関係じゃあねえ。

 パイロットの職務以上の情報を知らされているはずもない。

「なるようにしかならない、わね」

 剛胆が葛城ミサトのモットーだ。

 くどくど悩む悪癖は、高校時代に切り捨てたつもりだった。



 葛城ミサトの不審のまなざしが分からないわけではなかった。

 が、碇シンジはそれでも逡巡に囚われていた。

 惣流=アスカ=ラングレー。

 セカンドチルドレン。エヴァ弐号機専属操縦者。

「かっわいい子だから楽しみにしててねえ」

 自分とのデートという言葉ではからかえなかった葛城ミサトが、クルージングといったその目的を説明した。

「そうですか、楽しみです」

 楽しみもなにも、ぼくはアスカを知っている。

 そして。

 楽しみというより、漠と怖れがあった。

 渚カヲルの力に頼っても消せない怖れ。

 あるいは、震える期待。

 ……ぼくはアスカを傷つけることしかできなかった。

 うっさいわねえ!

 なんであんたなんかに!

 嫌い! 嫌い! 大キライ!

 答えてくれないアスカ。

 応えてくれないアスカ。

 引き裂かれた四肢。喰い千切られた臓物。血に沈む眼球。

 孤独の中で泣いていたアスカ。

 ひとりでもがいていたアスカ。

 分かり合えたかも知れないのに。

 分かり合おうとしなかった。

 分かろうとしなかった……ぼく。

 自分のことだけしか見えなかったぼく。

 そんなのはもう嫌だから。

 傷つけあうのは辛いから。

 だからぼくは戻ってきた。

 もう一度。

 もういちど逢えるように。

 ……サードインパクト。みんながひとつのココロに溶け合った世界。

 アスカの心は感じられなかった。

 アスカは死んだのだろうか?

 そう、もういなかったのかも知れない。

 だから。

 だから、もう一度。

 ……この世界のアスカは、あの時のアスカじゃない。

 やり直せるかも知れないから。

 今のぼくには目的もある。

 流されることもない。

 怯えることもない。

 今度は……守ってあげられるかも知れない……。

「空母がいち、に、さん、し、5! 戦艦4! まさにゴージャス!」

 碇シンジは顔と心を上げた。



「やっぱり人選、間違ったわ」

 溜息とともに碇シンジに同意を求める目配せ。

 海軍水兵たちの軽侮の視線が痛い。

 くすくすと笑いながら碇シンジ。

 二人で、カメラを片手に奇声を上げ続けている相田ケンスケと、風に吹き飛ばされた帽子をへっぴり腰で追いかけていく鈴原トウジの後ろ姿を追う。

 その先に。

 その少女がいた。

 綾波レイが月の静けさを纏う美少女であるなら、彼女は炎の煌めきを羽織る美少女。

 壊れた彼女ではない。

 苦しむ彼女ではない。

 湖のごとくに蒼い瞳。金に成長する前の赤茶色の流れる髪。

 黄色いワンピースに身を包み、高慢に鼻をそらせ、溢れる笑顔を浮かべる少女がそこにいた。

 足下に飛び転がって来た鈴原トウジの帽子を器用に拾い上げる。

 くっと笑い、葛城ミサトに視線を合わせる。

「ヘロゥ、ミサト! 元気してた?」

「ま、ね。あなたも背、伸びたんじゃない?」

「そ。他のところも、ちゃあんと女らしくなってるわよ」

 航空母艦で同じ年頃の美少女?

 意表をつかれた感動に固まっている鈴原トウジ、相田ケンスケ。

「紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機の専属パイロット、セカンドチルドレン。惣流=アスカ=ラングレーよ」

 その言葉が終わらぬ間に。

 甲板を強い横風が吹きよぎる。

 ふわ、と持ち上がる少女のスカート。

 おぉ、と目を見張る純情すけべ少年3名……碇シンジもやはり期待していた。

 が。

 肝心の股間をさらす前に、片手に持った鈴原トウジの帽子でスカートは押さえられた。

 パン! パン!

「な、なにすんねん!」

「見てないぜ!」

「はん! 覗こうと鼻の下伸ばしてるのは誰よ! 見ても見なくても同罪よ!」

 そんなあほな。

 と手形のついた頬を押さえ滂沱の鈴原トウジ、相田ケンスケ。

「で、噂のサードチルドレンってのが?」

「この子よ」

 クラスメイトたちより数歩後ろに立っていた碇シンジに。

 惣流アスカは、腰に手を当て、つかつかと近寄る。

 ……平手打ちが来るかな?

 わくわく、と、なにやらおかしな期待をしてしまう碇シンジ。

 その姿をじっとねめつけたあと。

 惣流アスカはニカッと笑った。

「よろしくね、ば・か・シンジ!」

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